大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

9月1日に思う・・・5

この国の首都を未曽有のの災厄が襲ったあの日を思い出すべき9月1日から、重苦しい話ばかりが続いている。お付き合いいただいている皆様には実に申し訳ないのだがもう少しで終わる・・・最後までお付き合いいただきたい。


 

1923年9月1日11時58分32秒に東京を中心とした地域に訪れたこの災厄の後、いくつもの災厄はこの国を襲っている。中でも20年前に神戸を襲った阪神淡路大震災、そして・・・私の郷里をきれいさっぱりと流し尽くした東日本大震災は、まだ生々しい記憶の中にある。

例えば・・・神戸を襲ったあの最悪の日の次の日、私は偶然にも若い人たちに関東大震災に際しての朝鮮人虐殺について語る予定でいた。だから・・・時間を追って聞こえてくるその被害の大きさに、その地に住む人々のどうしようもないほどの不安を思った。そして、危ぶんだ・・・あの日と同じことが起きやしないかと・・・そんな言葉を私は、翌1月18日に若い人たちの前で口にしてしまった。考え過ぎだ・・・今は時代が違うと若い人たちは口々に笑った。むろん、周知の通り、私の不安は杞憂に終わった。それどころか、あの困難な日々がかつてあったこの国の人々と「在日」と呼ばれていた人々との間にあった暗黙裡の溝をいささかでも埋める役割を果たしたことは多くのメディアが報道したところである。

けれども私は知っている。神戸の街には多くの「在日朝鮮人」が暮らしている。そんな彼らについて、ほとんど読者のいないような「ゴロツキ新聞」ゆえに多くの人は知らぬままに過ぎたが、彼らが犯罪行為に及ぶ恐れがあり自警団の組織が必要である(あるいは組織された?・・・手元に記録がないゆえどちらだったか判然とはしない)との記事が載せられていた。

そして・・・今回の東日本大震災被災者たちの整然とした落ち着いた行動は、海外にも報道され惜しみない称賛の声が寄せられた。このこと自体は実に素晴らしいことであろうし、私も自分の郷里の人々へのこういった声には、実にうれしいことであった(今日「・・・は日本の誇り・・・」などとの言説をよく聞くが、私はそういったもの言いに虫唾が走る思いを禁じ得ない。誇りとは自らの行動や生きざまに対して持つべきもの。他者の優れた行為や業績はあくまでその人自身が誇りに思えべきであって、自らの権威づけに利用するべきものではないからである)。

・・・うれしく感じながらも、いささかの疑問符を感じずにはいられなかった。表立って報道されることはなかったものの、困難な生活の中、ついつい賞賛されざる行為に手を染める・・・あるいは毎日を送る人々がなかったとはいえなかったからである。ただ、私が疑問符に感じたのは、そのような人々がいたのにもかかわらず海外から賞賛を受けていたことでは決してない。そのような事実があったことをマスメディアをはじめ、この国の人々が目を閉ざそうとの意志が感じられてならなかったからである。賞賛されるべきこの国の被災者たちの中に、そのような悪事に走るものなどはいない・・・みんながそう思おうとしている事実に対して、何かしら居心地の悪さを感じたのである。

私も被災地には幾人も知人を持つゆえ、そういった情報は少なからず聞いた。同じように被災石巻を郷里に持つ辺見庸も、郷里の人々の、賞賛されざる暮らしについて情報を得ていたようだ。

「芸能タレントとテレビキャスターと政治家が我も我もと来て、撮影用に酒なんか飲んだりしてね。人々は涙を流して肩を組み、助け合ってます、復興してます、と。うそだよ。酒におぼれ、パチンコ行って、心がすさんで、何も信用できなくなってる人だって多い。PTSD(心的外傷後ストレス障害)ね。福島だって『花は咲く』どころじゃないんだよ。非人間的実相を歌で美化してごまかしている。被災者は耐え難い状況を耐えられると思わされてる」

毎日新聞 2013年05月09日 東京夕刊)

被災地以外の多くの人々は、ひょっとしたらうすうす感じていたのかもしれない。マスメディアだって当然知っていたはずだ。けれどもみんな目を背けたのだ。美しい日本人像を壊さぬために・・・・そして隠しようもなく、賞賛されざる行為が表ざたになった時・・・一部のネットユーザーのは、「在日外国人」の仕業に仕立て上げた。

もちろん、これまた多くのこの国の人々は真に受けることはなく済んだ。確かに関東震災の時代とは、この国の人々の意識は明らかに違っている。しかし、少数ではありながら、こういった際に「在日外国人」についての流言が飛び交うという事実は変わってはいない。そして・・・ともすれば、かなり多くの人々がそう言った言説に流されてしまう事態が生まれかねないのでは・・・と私は秘かに危惧している。

東日本大震災以降直後の被災者たちの行動は確かに賞賛されるに値するだろう。けれども、それが誰かさんの言う「美しい国 日本」と重ねあわされる時、それはその規格に合わない人々は排除されてしまうことを意味する。だから我々はそれを見ようとはしなかったのだ。見てしまえば・・・それは「美しい」ものではなくなってしまうからだ。そして、どうしてもそれを見なければならないとき、その苦痛に耐えることのできない一部のものは「美しい国 日本」の国民以外になすりつけてしまうのだ。

例証として、かつて大津のいじめ事件が発覚した時、ネット上ではいじめを行った中学生たちが同和地区出身のものだとか在日外国人であるだとかいう流言が少なからず書きこまれていたことをあげられよう(この事件に関わらず、ネットの世界ではことあればそれを一部のマイノリティーの仕業に仕立て上げる)。無論事実ではない。けれども、彼らはそう言うことにしておきたいのだ。そうでないと不安なのだ。

人間は誰しも善であり、悪でもある。けれどもなるべくなら自分に悪の側面があるとは信じたくない。だから・・・様々な場面で良からぬ話を聞いたときに、それは自分とは違う「人種」のやったことだと思いたいのである。そしてなるべくなら「誇り」ある人々と同じ「人種」でありたいと思う・・・

こんな事を言っている私だってそうだ。だからここに告発しているのである。そんなふうにはなりたくないからこそ、自らもそうであることを自覚しなければならないからだ。