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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

暁と 夜鴉鳴けど

あかときと 夜鴉よがらす鳴けど この森の 木末こぬれの上は いまだ静けし

もう暁だよ、と夜鴉が鳴くので、しぶしぶ愛しいあのこの家を出てきたが、振り返り見れば裏山の森の梢の鳥たちは、まだ静かなままじゃあないか。

万葉集・巻七・1263

東の空が白々と明け初めてきたのだろうか。外ではそんな時刻を告げるように夜鴉の声がかまびすしく聞こえる。男は離れがたい思いを抱きつつも女の家を出た。別居婚が普通であったこの時代、男は夜、暗くなってから女のもとを訪れ、そして夜が明ける前に女の家を出るのがならいであった。明るくなってその姿を他人に見られれば「人言を 繁し言痛こちたみ」(萬葉集巻二・116)という感じで、うわさが立ってしまい、限られた二人の逢瀬が難しくなってしまう。だから男は、後ろ髪を引かれる思いで女の家を出た。ところが、外に出てみるとその家の裏にある森の梢で小鳥たちはまだ眠りについたままではないか。朝はまだだった。まだ、一緒にいられただろうに・・・男は悔やんだ。

後朝の切ない気持ちを詠んだ歌とでも言えるのであろうか。けれどもこの歌の作者は、平安朝の歌人達ほど優美な物言いはしない。本来ならばもう少し一緒にいられたはずの時間を、夜鴉にだまされ、その夜鴉に対しての恨み言をストレートに歌っている。洗練されていないと言えば確かにそうだ。けれども、その一見、直接的すぎるようなこの歌いざまに、この男の残念さが素直に伝わってきて、私には好感が持てる。学生のころから気に入ってる歌である。

ところで、この歌の三句目、「この森の」であるが、やや異説があり、この読みで正しいかどうか、まだ疑問が残る。この句の原文は「此山上之」となっており、古来「この山の上は」と読まれてきた。けれども、ここは3句目、5音にならなければならない。字余りにしてもやや過ぎる。そこで「山上」の二字を一字のように扱い、「この山の」「この丘の」「この峯の」などの読みが考えられ出してきたが、近年「この森に」と読む説が浮上してきた。

なぜ、「山上」で森と読めるのか。なぜ「山上」と書いて「モリ」と読んで森と解釈するのか、その理由を述べなければならない。ここを「モリ」と読む説の論拠には、「モリ」という語に「こんもりと茂った山の頂」の意味を持つ方言の存在がある。宮城県や、東伊予あたりの方言らしい。

それは私が大学の萬葉集輪講会に入って何度目かの例会の時であった。その日、訓むべき歌がこの歌だった。発表者はこの句の訓について丁寧にこれまでなされていた訓について説明する。「ヤマ」と訓むべきか、「ヲカ」と訓むべきか・・・居合わせたメンバーはそれぞれに主張し、なかなか方向性が定まらない。入ったばかりの私などは何のことやらさっぱり分からぬままに時間が過ぎた。どれほどの時間が過ぎたであろうか・・・会を指導下さっていたH先生が「モリ」という訓も最近その可能性が考えられている・・・なんでも宮城あたりの方言らしい・・・と発言なさった。そう言えば、私の郷里でも「大高森」という名の山があった(今は東松島市となっている松島湾に臨む宮戸島にある山の名である)なあと思い出した私はそのことを思い切って発言してみた。先生はとても喜んでいたように見えた。

かくしてこの「山上」を「モリ」と読むことは可能になった。後は、「ヤマ」・「ヲカ」・「モリ」の読みのうち、どれが意味の上で適切かと言うことになる。 これら三つの語が持つ意味のうちどれがその表記のありようも含めて、この歌にはふさわしいかがその判断の基準になる。こうなると「山上」という書きざまが問題になってくる。「ヤ マ」と読むべきならばなぜ「上」の文字を書き添えたのか。「ヲカ」と読むのならばなぜ「丘」或いは「岡」の文字を使わないのか。こうして「頂」の意味を持つ「モリ」という読みの蓋然性が浮上してくる。

ならば、なぜ 「森」という文字を使わなかったのかという疑問が生じてくる。しかし、ここはいわゆる「森」を意味しているのではなく、「山の頂」という意味で使ってい る。「森」という文字を使ってしまうと「木のたくさん生えているところ」という意味にとられてしまう。よって「山上」という用字が考えられた。

以上が私の考えであるがいかがだろうか。もとより、専門的な検証を行ったわけではない。近年行われている学説に対し、自分なりの解釈を示したのみである。「ヤマ」のほうが・・・或いは「丘」のほうが良いんじゃあないかと思われるかともいらっしゃるだろう。それはそれでかまわない。管見では、「モリ」と読むことが定説となっているようには思えない。「ヤマ」「ヲカ」などと読む可能性を否定するだけの根拠を私は持ち合わせていない。

ところで、この歌についてはもう2点語るべきところがある。

一つ目。私はこの歌に関して、上にこのように書いた。

東の空が白々と明け初めてきたのだろうか。外ではそんな時刻を告げるように夜鴉の声がかまびすしく聞こえる。男は離れがたい思いを抱きつつも女の家を出た。

ここで、私は何の疑問を差し挟むこともなく、男の歌として・・・・そう、嫌々ながらも女の家を出て行く、男の歌として、この歌を皆さんに紹介した。けれども、この歌の作者は不明である。とすれば、その時私がしたように、軽々と男の歌として注釈を加えることは、本当は避けられるべき事である。出て行く立場、送る立場ともに自らの対象へのさりがたい思いがそこにあることは確かであろうが、立場が異なれば当然、そこに漂う情緒は異なったものになってしまう。試みに、その情緒の違いを旨く説明しきれるかどうか自信はないのだが、この歌を女の歌と見た上での、注釈をほどこしてみようか・・・・

 夜鴉がさっきはしきりに鳴いていた。夜明けはもうすぐだ。そう思い女は、男を戸口まで送り出した。通い婚のならいとして、男は一度出て行けば、いつまた来るとの保証はない。一時も離れたくはない・・・そんな想いを抱きながらである。・・・・しばらくして・・・・女は思う。いつもなら、朝が来ればあんなに喧しい、裏山の頂の木々の鳥たちがまだ鳴き始めていないではないか・・・・女は表に出る。まだ夜は明けきらぬままである。

或いは、次のような理解も可能である。

夜鴉がうるさく鳴くから、女は渋々男を戸口まで送る。しかし、戸を開けてみると外はまだ暗いではないか。「木々の鳥たちもまだ静かなままですよ・・・」と女は男を引き留めた。

さて、皆さんはどの理解の仕方が、最も適切だとお思いになるか。まずは最初にお示ししたように去りゆく男の立場の歌とするもの。男が去った後、自分たちに朝が来たと勘違いさせた夜烏を恨めしく思い女が詠んだ歌とするもの・男を引き留めている女の歌。私が見る限り、多くの注釈者が男の歌と理解している。私も同様だ。けれども、これには、明確な根拠はない。結局のところ、そのように理解することが、この歌の良さを最も引き出すだろうというところに帰着する。すくなくとも私にはそのようにしか説明できない。

二つ目。「夜鴉」について。この言葉、近年まで「夜になく鴉」と考えられ疑われることはなかった。が、最近、これは「鴉」ではなく、ゴイサギのことをさすと考えが提出され、定着しつつある。ゴイサギは森林に生息し、夜行性の鳥類である。昼は樹上に休み、夜になると補色活動を開始する。その鳴き声が烏とよく似ている事から、ここはその声により、鴉と勘違いしたものと解する。

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というのは、基本的に夜行性ではない鴉がまだ明け切らぬうちに鳴き始めるとはあまり考えられないからだ。やはり、ほかの鳥たちと同じように、やや明け初めた時分に鳴き始めると考えた方が無難であろう。かりに、鴉が朝早くに鳴き始めるものだとしても、確率的に言えば夜行性で夜に盛んに活動するゴイサギの方が蓋然性は高い

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