大和逍遥   

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法隆寺に行く・・・2

南大門をくぐり抜け、きれいに掃き清められた参道をまっすぐに進む。晴れ渡った秋空はあくまで清々しく、これから御仏を詣ろうとする私の世塵を祓い去ってくれるような青さだ。南大門から参道はほぼ100m、そう高くはない石段を登り、ほどなく中門に突き当たる。

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この中門、実に変わった造りで、普通なら存在しない柱がその中央部にでんと位置どっている。邪魔なことこの上ない代物であるが、なぜこんなものがここにあるのか・・・・あれこれ語られることが多い。

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梅原猛氏などは謀殺された聖徳太子及びその一族の怨霊を伽藍の中に封じ込め、外に出てこられないようにするためのものであったとしている。(隠された十字架)ことの正否を云々する力には乏しい私がここで梅原氏の考えをどうのこうのと言える資格はないが、聞きかじりの知識をもとに実に危うい考えを示せば次のようになる。

いわゆる怨霊信仰なるものは平安朝に入ってからのもので、それを法隆寺の出来た頃まで遡ることは難しいのではないか。法隆寺が700年頃に再建されたとする考えが主流と見なされる今日ではあるが、その時代に怨霊という観念が人々にあったのか疑わしい。

鹿児島県霧島市には隼人塚なる遺跡がある。これが虐殺された隼人達の怨霊を恐れて築かれたたものであり、これを一部の考えにあるように奈良朝初期(和銅元年説 養老4年説)の築造という考えに従うならば、怨霊思想なるものがそこまで遡れるではないかとも考えられる。けれどもこの和銅元年説、養老4年説にそのまま従うことが出来るかどうかという天には少々疑義を挟まざるを得ないし、また私にはこれが恨みをもって死んだものの怨霊対する恐れと言うよりは、古代人が一般に共有していた死者に対する恐れとみた方が良いとしか思えない。

加えて、太子が怨霊として恐れられていたとするならば、なぜその後の怨霊達(古くは藤原広嗣井上内親王他戸親王早良親王、平安朝には言って菅原道真崇徳上皇)のように神として祀られることがなかったのか・・・説明が必要であろう。私は寡聞にして太子を祟り神として祀った例を知らない。

以上は私がかつて目にした書物の知識を敷衍して・・・さらには敷衍しただけならようが勝手に尾ひれをつけた考えである。よって賢明なるみなさんは決して信じたりはなさらないだろうから、安心して申し上げた。

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さて中門の両脇にはこちらをおっかない顔で睨み付けている金剛力士がいらっしゃる。東大寺南大門のそれのように巨大なものではないが、やはり怖いことは怖い。迫力満点である。そして怒りに狂ったような表情のそれとは裏腹にこちらの心の奥底を見抜くようなその視線は・・・私のような臆病なものを萎縮させて止まない。

お前には本当に御仏の前に立つ資格があるのか・・・と問い詰められているように思えてならない。それでも何とかお許しをいただいた。

・・・さて、御仏にお会いすることにしよう・・・