大和逍遥   

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法隆寺に行く・・・7

前回も述べたように、法隆寺東院伽藍の中核的な堂宇は、この夢殿である。

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聖徳太子が暮らしていた斑鳩の宮跡にこれらの堂宇が立てられたことは、前回に述べた如くである。ご覧の通りの八角円堂で天平9年(737)から11年(739)くらいにかけての建築物ではないかと推定されている。少なくとも8世紀末には「夢殿」と堂宇がここに存在していたことは確かめられている。堂内の中央の厨子に聖徳太子等身と伝える秘仏の救世観音像が安置され、その周囲に聖観音菩薩像、行信僧都の乾漆像、道詮律師(平安時代に夢殿の修理)の塑像が配置されている。堂内は石敷で、堂内には二重の八角仏壇があり、その周囲に8本の柱が立っている。

この堂宇の主は聖徳太子の御姿を模したとされる救世観音像である。年2回の夢殿本尊開扉法要(4月11日~5月18日・10月22日~11月23日)の期間以外はその御姿を拝することはできぬ。とはいえ、その御姿を拝見できるだけでも幸福なことで、かつて法隆寺の絶対秘仏とされていたこの御仏は厨子の奥にお隠れになり、数世紀の間、法隆寺の僧すらもその御姿を拝することはかなわなかった。

状況が変わったのは明治17年(1884)8月16日のことである。歴史の教科書で習ったようにフェノロサ明治政府の依頼により、法隆寺を訪問した。むろん政府の法隆寺宝物調査は、それ以前にも数回行われていた。けれども法隆寺の僧は聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことをかたくなに拒み、救世観音を納めた厨子は開扉されることはなかった。それを受けてのフェノロサの派遣である。フェノロサは僧侶たちに観音像の開帳を粘り強く迫った。話し合いは容易には進捗せず、長く硬直状態が続いたが、最後には僧たちが折れた。そして・・・いよいよ開扉である。東亜美術史綱(p91)には次のようにその興奮が描かれている。

二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。

救世観音の御姿が現れるまでの緊張と、その御姿が現れた時の感動が手に取るように伝わってくる一文であるが、この「驚嘆すべき無二の彫像」を初めて見たフェノロサの感慨を、和辻哲郎が古寺巡礼の引用するところの一文でお伝えしよう。長い引用で恐縮ではあるがあるが、その流麗な文章のどの一部も私は省略することが出来なかった。

そうしてこの驚嘆すべき、世界に唯一なる彫像は、数世紀の間にはじめて人の眼に触れた。それは等身より少し高いが、しかし背はうつろで、なにか堅い木に注意深く刻まれ、全身塗金であったのが今は銅のごとき黄褐色になっている。頭には朝鮮風の金銅彫りの妙異な冠が飾られ、それから宝石をちりばめた透かし彫り金物の長い飾り紐が垂れている。しかしわれわれを最もひきつけたのは、この製作の美的不可思議であった。正面から見るとこの像はそう気高くないが、横から見るとこれはギリシアのと同じ高さだという気がする。肩から足へ両側面に流れ落ちる長い衣の線は、直線に近い、静かな一本の曲線となって、この像に偉大な高さと威厳とを与えている。胸は押しつけられ、腹は幽かにつき出し、宝石あるいはをささえた両の手は力強く肉付けられている。しかし最も美しい形は頭部を横から見た所である。漢式の鋭い鼻、まっすぐな曇りなき顔、幾分大きい――ほとんど黒人めいた――唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている。ダ・ヴィンチモナリザの微笑に似なくもない。原始的な固さを持ったエジプト美術の最も美しいものと比べても、この像の方が刻み出し方の鋭さと独創性とにおいて一層美しいと思われる。スラリとしたところは、アミアンのゴシック像に似ているが、しかし線の単純な組織において、このほうがはるかに静平で統一せられている。衣文の布置は呉の銅像式(六朝式)に基づいているように見えるが、しかしこのようにスラリとした釣り合いを加えたために、突然予期せられなかった美しさに展開して行った。われわれは一見して、この像が朝鮮作の最上の傑作であり、推古時代の芸術家特に聖徳太子にとって力強いモデルであったに相違ないことを了解した。

この一文の引用元がどこにあるか判然としなかったが、ほぼ同様な内容の文章が先に示した東亜美術史綱第4章(p91~p92)にある。文体はあくまでも引き締まり読んでいて心地よいのはそちらの方なので、そちらの方をお読みになりたい方は先に示したリンク先をお読みいただければと思う。

私もかつて2度ほどこの御仏のご尊顔を拝する機会が2度ほどあった。全身をとらえた写真などを見ると実にすんなりとしたお体の上に楚々としたお顔が印象的で、聖徳太子はかくも清らかで気高い方であったのだなと思われてしまうのだが、実際に夢殿で救世観音にお逢いすると、その印象は大いに異なってくる。

そう大きくはない仏様なのだが、少々高い基壇の上にお立ちになっているため、堂の外からお顔を配する私たちをどうしても見下ろす感じになっている。しかも、長年秘仏とされ光に当たる機会が少なかったために造立当初に施された金の箔がまだかなり残っており、それが堂内の薄暗さの中で少々不気味なまでの光を放っている。全く別人のお顔立ちになっているのだ。

梅原猛氏が、その御論を展開するに当たり、この辺りが気になったのではないかと思えてくるのだ。氏はこの御仏が、上のフェノロサの一文に「背はうつろで」とあるように、その背の部分が中空になっていることに触れて次のように語る。

他ならぬ聖徳太子等身の像の中身を空にしたのか。それは明らかに、人間としての太子ではなく、怨霊としての太子を表現しようとしたからであろう。それは、地に足をつけていず、亡霊の如く立ち現れた太子の姿なのである。」

隠された十字架(p.397)

しかしながら、一の木造りの仏像が中空になっていることが他に例の見られないことではない(「内りといって、ひび割れを防ぐための技法である。梅原氏のようなお方が私でも知っているようなことを知らなかったとは思われないのだが・・・)。従ってここでの氏の説くところに従えないし、氏の説くところ全体にも従えないことは先に述べたとおりであるが・・・私が初めて救世観音にお会いした時の印象は、まさしく「亡霊の如く立ち現れた太子の姿」のように見えたことも確かではある。