大和逍遥   

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法隆寺に行く・・・8

夢殿を後にして私が向かうのは、先ほど後回しにしておいて大宝蔵院。途中、先ほど大宝蔵院に入って行った修学旅行に中学生の集団とすれ違った。どうやら私の作戦はうまいこと行ったようである。

大宝蔵院は南北に細長い建物が東西に一対並んでいる。そしてその北辺が通路でつながっており、その通路の中央が百済観音堂である。これまた教科書で有名な夢違ゆめちがい観音、玉虫厨子ずしや、橘夫人所蔵の厨子、、百万塔陀羅尼だらにで有名なそのよう来る無数の小塔、九面観音像、・金堂小壁画など、ざっと思いつくものをならべて見るだけで面倒くさくなるほどのわが国を代表する宝物類が多数安置されている。

大宝蔵院の入り口は西側の棟の南端にある。少々暗めの・・・落ち着いた光の中・・・上にあげた宝物類や、由緒正しいき御仏たちがずらりと並ぶ。広さは・・・そう、学校の教室を少々狭くして、それを南北に二つ並べたぐらいの広さと言ったらいいであろうか・・・決して少なくはない拝観客ではあったが、館内は静謐が保たれている。展示された品々の持つ威厳が人々をして押し黙らせてしまうのである。

そして、西側の展示物をすべて見終え、私は東の蔵へと向かう。そしてその通路上にあるのが百済観音である。 Geishaboy500 美しい・・・まことに美しい仏様である。この御仏の魅力を皆様にお伝えするために必要な筆の力を私は持たない。度々の長い引用で恐れ入るが、ここで再び亀井勝一郎に登場してもらおう。

初めて法隆寺を訪れた日は、俄雨の時折襲ってくる日で、奈良の郊外は見物人も少くひっそりと静まりかえっていた。雨の晴間には、透明に高い秋空があらわれ、それに向って五重の塔は鮮かな輪郭を示していた。金堂の内も外もこの日は落着いてみえた。私は塔をみあげながら金堂の後を廻って、案内人に導かれつつ慎んで扉の内へ入ったのである。仄暗い堂内には諸々の仏像が佇立し、天蓋には無数の天人が奏楽し、周囲には剥脱した壁画があった。私はその一つ一つを丁寧にみようともせず、いきなり百済観音の前に立ったのである。橘夫人念持仏の厨子を中心にして、左側に百済観音、右側に天平聖観音が佇立していたが、それを比べるともなく比べて眺めながら、しかし結局私は百済観音ただ一躯に茫然としていたようである。

今でこそ、その居所として立派な観音堂があるが、かつてはどうも金堂の片隅に立っていらったらしい。

仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔??いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、光背の尖端に残った朱のくすんだ色と融けあっている状態は無比であった。全体としてはやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。

「大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔??いのちの火の生動している塔であった。」とは良くも言ったもので、そのほっそりとしたお体にはまるで人間という存在の気配を感じさせるものはまるでなく、かといって圧倒的な存在感でもってこちらに迫ってくるこの像を一度でも目にした者は、この御仏を言葉にて表現しようとすれば、このようにしか表現できないことが思い知られよう。亀井はさらに言葉を続ける・・・

これを仰いでいると、遠く飛鳥の世に、はじめて仏道にふれ信仰を求めようとした人々の清らかなぐな憧憬を感じる。思索的で観念的であるが、それが未だ内攻せず、ほのぼのと夢みているさまがおおらかである。他の推古仏と同じように、その顔も稍々下ぶくれで、古樸端麗、少しばかり陽気で、天蓋の天人にもみらるる一種の童話的面影を宿している。顔面の剥脱して表情を失っているのも茫乎ぼうことして神々しい。同時に無邪気であり、生のみちあふれた悦びと夢想の純潔を示す。静に佇立しているようだが、体躯は絶えず上へ上へとのびあがり、今にも歌い出さんばかりである。飛鳥びとの心に宿った信仰の焔を、そのまま結晶せしめたのだろうか。??私が長い間失っていた合掌の気持を、このみ仏がしずかによび醒ましてくれたのであった。 私はまた千三百年前の民たちが、かような仏像をどんな心で拝したかを想像しないわけにはゆかなかった。建立された当時の金堂は、目を奪うばかり絢爛たる光彩を放っていたであろう。壁画も鮮かな色彩のままに浄土の荘厳を現出していたであろうし、百済観音も天蓋の天人も、おそらく極彩色で塗られ、ことによるとしつこいほど華麗なものだったかもしれぬ。民たちは新しい教に驚異し、畏敬と恐怖と、あるいは懐疑の念をもってこの堂内にぬかずいたであろう。しかし、ふと頭をもたげて、灯明と香煙のたちのぼる間に、あのすばらしい観音の姿を見出したときの驚きはどんなであったろうか。彼らは我々のように無遠慮な批評がましい観察などしなかったにちがいない。

もう、これ以上私の言葉は必要とされないであろう・・・そう暑い日ではなかったが結構な時間歩きつめたせいか少々喉が渇いた。門前に立ち並ぶ土産物屋とも食堂ともつかぬお店の店先の自動販売機の清涼飲料水でのどを潤した後、私は斑鳩の里を後にした。