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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴淡等謹状  梧桐日本琴一面

かなり以前・・・万葉短歌僻読が虚見津という名で更新されていた頃、以下のような記事を載せ、天平の初年、大伴旅人藤原房前の間で行われた、心温まる交流を紹介したことがある。この記事は虚見津を改訂する形で万葉短歌僻読というブログを立ち上げた時に、引っ込めてしまった一文なのであるが・・・その理由は・・・いや、その理由を語る前に先ずはその記事を読んでいただこうと思う。振り仮名や体裁を若干改めはしたが、中身についてはそのままに以下に示す。


神亀6年(729)2月、正二位左大臣と当時政権のトップにあった長屋王は讒言により、憤死した。世に言う長屋王の変である。その後改元が実施され、年号は天平と改まった。同年の八月に「天王貴平知百年」の文字を背に負った瑞亀の献上されたが故の改元であったが、政権のトップがかくのごとき形で死に追いやられた世の暗い雰囲気を一新させんが為の演出だったかも知れないが、今となっては何とも言えない。

おそらくは改元から2ヶ月後の10月の後半のどの日かであろう。長屋王の変長屋王を憤死に追い込んだ藤原四兄弟の、次男藤原房前ふささきのもとに、太宰帥だざいのそち大伴旅人から一面の日本琴が届けられた。その琴には次のような書簡と短歌が添えてあった。

大伴淡等おほとものたびと謹状 梧桐日本琴一面 の琴、夢に娘子とりて曰わく、「余、根を遥かなる嶋の崇巒に託し、幹 を九陽の休光にさらす。長く烟霞を帯び、山川のくまに逍遙す。 遠く風波に望みて、鴈木の間に出入りす。 だ恐るらく、 百年の後、空しく溝壑に朽ちんことを。 たまさかに良匠に遭い、りて小琴と為る。質あらく音の少さきを顧みず つねに君子の左琴ならんことを希ふ。」と。即はち歌ひて曰はく 大伴旅人から謹んで申し上げます。 青桐の大和琴一面。

この琴が、夢の中で乙女の姿になって私に語りました。『私は、根をはるか沖の遠い島の高山にのばし、幹を太陽の美しい光りにさらし、伸び伸びと育ちました。雲や霞を衣とし身にまとい、山川の音に心を遊ばせ、遠く海の風波を眺めては見ては、将来どなたかのお役に立てるのか立てないのか、曖昧な気持のまま過ごしておりました。このまま空しく生涯を終え、谷間に朽ち果てるのではないかといつも恐れていました。ところが、たまたま立派な匠に出会い、削られて小さな琴となることができました。音質も悪くよい音も出ない我が身を顧みず、いつまでも立派な方の傍らに置いていただきたいと思っています』と・・・。そして乙女は次のように歌を詠みました。

いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我がまくらかむ

いつの日、どんな時になったら、私のこの音色を聞き分けて下さる立派な方の膝の上に、私は枕することができるのでしょうか。

われ、詩詠して報へて曰く

こととはぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴たなれの 琴にしあるべし

言葉を言わない木であっても、立派なお方が大切にしてくださる琴となるに違いないでしょう。

琴の娘子答へて曰はく 「 敬しみて徳音を奉はる 幸甚々々」と。 片時しばらくありておどろきき、 すなははち夢の言にかまけ、慨然としてもだること得ず。 故に公使に附けていささかに進御たてまつるのみ。 謹状不具

琴の乙女は言いました。『謹んで結構なお言葉を承りました。有難うございます』と。私はその僅か後に目を覚まし、夢の中の乙女の言葉に感じ入り、感激のあまり黙っていられません。そのため、公の用事のついでに、ともあれここに琴を献上いたします。

天平元年十月七日使ひに附けて進上たてまつる。

謹通 中衛高明閤下 謹空

大伴旅人万葉集巻五・810、811

一番はじめに大伴淡等とあるがこれは後に続く書簡文にあわせ自らの名を中国風に表記したものだ。夢の中で云々というのはもちろん旅人の創作で、物語仕立てにてこの琴を房前のもとに送り届ける理由を語っている。「うるはしき 君」とはもちろん房前のことをさしている。書簡文中の「君子」なる語も同様である。風流人、大伴旅人は琴を送り届けるにも趣向を凝らすことを忘れない。日付の記入の後「中衛高明閤下」とあるのが藤原房前のことである。中衛府近衛府と並んで、当時、宮廷の警衛に当たった役所。この時、房前は参議、正三位、中衛大将は兼職として就いていたのであろう。「謹空」は、脇付の言葉で、相手をうやまって、この先は白紙で残しておきます、という意味。

時に当時の旅人の官位も正三位、太宰帥の前の役職が中納言であるから、その点では房前と同等の立場にあったと言うことが出来よう。違いは、かたや、平城の都の中枢にあってその権力を欲しいままにしているに対し、旅人は都人からすれば辺境の地にあり、政治の一線からは遠く離れていると言う一点である。

そしてその政治の一線にある房前から時おかず丁重な返書があった。

ひざまづきて芳音を承り、 嘉懽こもごも深し。すなはち知る、 龍門の恩、た蓬身の上に厚しといふことを。 戀望の殊は、常の心に百倍す。謹しみて白雲の什に和し、以ちて野鄙の歌を奏す。 房前謹状

謹んで有り難きお言葉をいただき、その美しき詞とあなた様のご厚誼、ただただ恐れ入るばかりです。それにつきましても、御琴をお贈り下さった高く遙かな志が、この卑しい身に、の上もなく厚く、降り注がれていることを知りました。ひとえにあなた様をお慕い申し上げる気持は平生に百倍する思いです。謹んで遠くからの有り難い詠歌にお応えし、拙い歌を献上致します。房前謹状

言とはぬ 木にはありとも 我が背子せこが 手馴れの御琴みこと つちに置かめやも

言葉を言わない木であっても、あなた様がご愛用の御琴を私が膝から離したりするようなことがあるでしょうか・・・

十一月八日 還使の大監に附く

謹通 尊門 記室

藤原房前万葉集巻五・812

何とも丁寧な返書ではないか。贈る側の気持ちを充分に汲み取り、その風雅に対し風雅を持って応ずる、まさに風流人同士の暖かい心の交流がここにある。旅人の贈った琴を末永く大切にすることを誓い、贈り主への感謝と、それに添えられた書簡の虚構に感銘の意を充分すぎるほど表している。

「大監」とは太宰府の役職で大伴百代ももよのこと。「尊門」は、「尊家」と同じで相手に対する尊称。「記室」とは書記役の事務所のことで、高貴な人(ここでは旅人)に出す手紙は、直接当人の手許にさし出さないで、側近の者にあてることから、房前は自らをへりくだりこのように書いた。

長屋王の変という忌まわしい事件があったこの年、両人が、都と筑紫というかくも長き懸隔の地にあって、かくのごとき暖かい交流を為していたことは、思わず気の休まる思いがする一方、この二人が旅人と房前であったと言うことに、一点の疑念がそこに感じられてしまうのは、私だけではないだろう。なにしろ、大伴旅人は親長屋王派の巨頭、そして房前はこの事件の当事者藤原四兄弟の一員であったのだから・・・・


上に言いさしてやめておいたこの記事を引っ込めてしまった理由が、最後の4行ぐらいにある。その時は何気なく書いた一文なのであるが、改めてこの旅人と房前のやり取りを読んでいると、この時感じた私の「一点の疑念」が、私の中で質の違うものに変化していったことに気づき、このまま皆さんにお示ししておくことは出来ないと判断したからである。

だから・・・ここで改めてこの記事を引っ張り出してきたということは、その「一点の疑念」が何らかの形で私なりに理解できて来たことを意味する。無論、それは手前勝手な理解に過ぎず皆さんにたいそうにお示しするべきものであるかどうかは自信はない。ただ・・・せっかく思いついたものであるから、それを何か形あるものにしておきたいと思ったまでである。

次回以降・・・その私なりの理解をお示したいと思う。出来ればお付き合いいただいて・・・お笑い種にしていただければ幸いである。