大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴旅人と藤原房前・・・1

前回の記事では時の大宰帥だざいのそち大宰府長官)大伴旅人中衛府大将藤原房前の間に交わされた心温まる贈答を紹介した。そしてその末尾に、この贈答にいささかの疑念が私にはあり、以降の記事においてこの疑念に対しての私なりの理解を開陳してみたい・・・という旨を書いた。

はたして私の疑念とは・・・そして、その疑念を私の内(あくまで「私の内」)にてどのように理解したのか・・・

まずは私の息子の高校時代の日本史の教科書を以下に引用する。

藤原氏の進出と政界の動揺 8世紀初めは、皇族や中央の有力貴族の間で勢力が比較的均衡が保たれて、藤原不比等を中心に律令制度の確立がはかられた。しかし、やがて藤原氏が政界に進出すると、大伴氏や佐伯氏などの旧来の有力氏族の勢力は後退していった。 藤原不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせて、その子の皇太子(のち聖武天皇)にも娘の光明子を嫁がせて天皇家と密接な関係をきずいた。 不比等が死去すると、皇族の左大臣長屋王が政権をにぎったが、藤原氏外戚の地位があやうくなると、不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てることに成功した。しかし流行した天然痘によって4兄弟はあいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。かわって、皇族出身の橘諸兄が政権をにぎり、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任されて活躍した。

(詳説日本史 山川出版 p41~p42)

日本史の教科書界においての巨人、山川出版の詳説日本史の記述である。引用は奈良時代の初頭から中盤にかけての政治的な状況についてごく大雑把に・・・しかしながらこれを読めば実に的確に当時の政治的な状況が窺い知ることが出来るように書かれており、この時代の文学を学生時代に専攻しその時代背景については学んだことのある私は、その妙には舌を巻くしかない。私たちが高校時代の頃には

こんな奴やら赤い表紙のものが出回っていたかと思う。上の引用のあたりの記述はどうもそんなには変わってはいないように思うが、私の疑念とは下線を引いた部分についてのものである。

この山川出版の日本史の教科書を使って私が高校時代に学んだことを思い出せば長屋王の変についての理解は次のようになる。

不比等死後、長屋王に政権を奪われた藤原4兄弟は、聖武天皇夫人光明子を皇后にしようと画策していたが、皇族以外からの皇族以外からの皇后は前例がないとしてこれを阻む長屋王がいた。4兄弟は長屋王を除こうとして無実の罪を着せ、これを排除した。

まあ、高校生の理解であるから不正確な部分があるのは大目に見ていただきたいのだが、細かな点を除けばこの理解は上に引用した教科書の記述と齟齬はない。いやしくも教科書たるものにいわゆる学界の定説と大幅に隔たりのあるようなことは書いてはいない(最近は一部にあるようにも思えるが)とは思うので、こうした理解が大方の納得を得る説明なのかと思う。すなわち、新進貴族の藤原氏が旧勢力の象徴たる皇族政治家長屋王を除き、政治的実権を手に入れようとしたのが長屋王の変なのだという理解である。

この理解のおおむねについては私とてそう違和感を感じるものではないが、不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4人を藤原4兄弟と一括りにし、彼らが一枚岩のようにまとまって政権奪取の動きに出た・・・ということについて、前回紹介した贈答を通じて、ちょっと待てよという気持ちになったのだ。

そこには・・・房前に琴を贈った大伴旅人の政治的な立場がある。

大伴氏は、天孫降臨の際に先導を司った天忍日命あめのおしひのみことの子孫とされる天神系氏族で、上の引用にも出てきた佐伯氏とは同族関係とされている。伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定され、物部氏と共に朝廷の軍事に関わっていたらしい。神話においての皇族との関係からすれば、皇族の親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違い見て取れるようにも考えられている。すなわち実態はともかくとして、大伴氏には宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵としての自負が受け継がれていた。無論それは天皇の側にも同様の意識はあり、例えば大仏建立の際に不足していた金が奥州より算出した時に聖武天皇が感激して発した「「また大伴・佐伯宿禰は、常も云はく、天皇すめらみかど守り仕へ奉る、事顧みなき人等にあれば(詔13)」あたりからもその意識は感じることが出来る。ちなみに、この詔に感激した旅人の子家持は賀陸奥國出金詔書歌一首なんて長大な長歌を作り、「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」と自らの家門の誇りを歌い上げた。

話が少々横にそれた。話を本筋に戻そう。

大伴氏はかくも由緒ある家筋であったが故、自らの時代に新進の藤原氏にその位置をとって変わられつつあることを旅人は快く思ってはいなかった。そんな旅人が期待を寄せたのは長屋王であった。皇族出身の長屋王であるならば藤原氏の台頭を認めるはずもなく、古来の忠臣である大伴を重用してくれる・・・そんな期待もあったのかもしれない、とにかく旅人は長屋王派の重臣として周囲から重んじられる立場にあった。

そんな旅人は、当然ながら長屋王をどうにかして除こうとしている藤原氏から見れば極めて邪魔な存在。何となれば、ここでは大伴氏の持つ軍事的な伝統とその自負が気にかかってならないのである。いざという時に大伴が向こうにつけば・・・当然佐伯も動く。そして自分たちの台頭を快く思わない多くの古くからの氏族たちも・・・

だからこそ直接大伴には刃を向けることはできない。そして、藤原4兄弟は波風を立てることなく旅人を中央の政界から一時期退かせる妙案を考える。

724年の大宰府赴任である。大宰府は当時まだ不安定であった九州の鎮めとして、さらには外交の窓口として極めて重要な政庁であった。しかもそこの長官(太宰師)の任は旅人の父安麻呂も務めた栄えある任である。当時旅人がかなりの高齢であったことを除けば、文句なしの職であったであろうと思われる。これには旅人も納得せざるを得ないであろう。

そして・・・旅人が太宰師の任を終えて、大納言として都に戻ったのは長屋王の変の翌年、730年のことであった。

旅人不在の都にあって藤原4兄弟は粛々と長屋王打倒を果たしたのである・・・・

・・・・と、私はかつてこの辺りの事情を理解していた。そしてその理解は私だけのものではなかったであろうと思う。その理解が・・・揺らぎ始めたのである。