大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴旅人と藤原房前・・・2

前回の記事において私は通常行われている奈良時代前半の最大の政変である長屋王の変についての、

不比等死後、長屋王に政権を奪われた藤原4兄弟は、聖武天皇夫人光明子を皇后にしようと画策していたが、皇族以外からの皇族以外からの皇后は前例がないとしてこれを阻む長屋王がいた。4兄弟は長屋王を除こうとして無実の罪を着せ、これを排除した。

という一般的になされている理解についていささかの疑念がぬぐえないとの思いを記した。さらにはこの政変に関わって、その策謀の遂行に邪魔な存在であった大伴旅人太宰府へと左遷したとの理解が一般的になされていることについても疑義を差し挟んだ。その理由を今日は示してみたいと思う。

単刀直入に言って、その理由は前々回にお示しした大伴旅人と藤原房前の贈答歌にある。長屋王の変のあったその年の秋、旅人は房前に梧桐の日本琴に、その由緒を語る2首の短歌を含んだ空想的な物語とも言える書状を添えて贈った。そして房前はその行為に対し丁重なる返答をなした。私にはこれが、通常言われているような対立関係にあった藤原氏の一人と旧来の有力氏族の筆頭とも言える大伴氏の氏の上たる一人の間に交わされたやりとりにはどうしても思えないのである。

人あって言う・・・中央政界の権力争いに敗れ僻遠の地にやられた大伴旅人藤原氏の有力者である房前に宛てた敗北宣言であると・・・

すなわち自分たちが頭と仰いでいた長屋王が除かれ、寄る辺なき身となった大伴氏の氏の上として房前にすがることでその延命を図ったものであるとの理解である。したがってこのような理解をしたときに、房前の返歌(万葉集巻五・812)についての評価は以下のようなものになる。

旅人が、夢に琴の娘子があらわれたとしている構想に對し、何等觸れていないのは物足りない。ワガ夫子ガ手馴レノ御琴というのも、旅人の書簡と一致しない。儀禮的な返書および返歌であつて、冷淡な態度があらわれている。房前、この時に年四十九歳、年長と見られる旅人に對して禮を失し、文學の道においても一籌を輸している。旅人の贈物の目的が、轉任運動であつたとしても、技術的には手段があつたはずである。 一籌を輸している・・・一段劣っている

武田祐吉 万葉集全註釈

つまり、僻遠の地から一刻も早く帰京出来るようにとりはからってはもらえないかとの旅人の「轉任運動」に対して、辟易とした房前がさりとて無視するわけにも行かずに「儀禮的」に返答したものだとする理解である。その根拠として武田氏は「人が、夢に琴の娘子があらわれたとしている構想に對し、何等觸れていないのは物足りない。ワガ夫子ガ手馴レノ御琴というのも、旅人の書簡と一致しない」事をあげている。この点について手元にある諸註釈を見ても、取り立てて明言するほどのものではないが、このような評価は受け継がれているように思え、伊藤博氏の萬葉集釋注に「仲麻呂ママとは相容れなかった旅人であったが、房前とはうちとけて言葉を交わす中であったらしい。」と有るのが唯一、旅人と房前の関係を通説とは違った見方と言える。

これらの理解に対し、李満紅氏「旅人と房前の往復書簡ー体裁と意味についてー」(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊)は、これらの贈答において旅人は「実態としての琴ではなく・・・君子の身を修め心を正しくする必要な道具」としての琴を媒体として房前との間に君子の交流を求めたものだとし、房前もまたその意図をくみ取り旅人の書簡がそうであったように「正式な体裁の漢文の返書に歌を付した」のだとする。また、交わされた3首の短歌についても「音知らむ人」との娘(実は旅人)も提起に対し、旅人が「愛しき君」と房前に呼びかけ、房前は旅人もまた「音知らむ人」であるとの理解の上にこの琴は本来旅人の「手馴れの御琴」でもあり得たものとして返歌をなしたものだとする。

この梧桐日本琴を介しての贈答についての評価の隔たりには、無論作品自体に対する読みの相違が反映されているとは思われるが、その背後には大伴氏と藤原氏の政治的な関係の理解が少なからず影響をもたらしていると思われるのは穿ち過ぎであろうか・・・

ところで・・・通常なされているこの時代の政治的な状況について林田正男氏は「旅人と筑紫歌壇ー筑紫下向は希望赴任かー(九州大谷研究紀要 2 1974年」

旅人帥赴任の問題も従来の左遷、藤氏の策謀などという見方は、一面的な見方であるといえる。そしてもう一方の見方に従えば、古代国家の基本的対立は藤氏と伴氏との間でなく、族長、官人階級と生産者階級との間に体現されているものであるという見方が可能である。即ち藤氏と伴氏は権力をめぐっての争闘ということを含みながらも、律令国家の確立や推進という点では、不比等やその四子及び安麻呂(旅人の父・・・三友亭)、旅人は重大な政治的役割を帯びて活躍した。

とし、例えば養老四年(720)藤原不比等が世を去った折、九州の地にあって征隼人持節大将軍(この任についても不比等のはからいではなかったのかと林田氏は見ている)として任務に当たっていた大伴旅人が急遽都に呼び戻されたのは、その時期に旅人が中納言職にあったことよりも、不比等と父安麻呂・伯父御行みゆきが深い交際があったためとの平山城児氏の説(「大伴旅人」有精堂万葉集講座6)を取り上げている。そして、不比等薨去後に旅人が長屋王とともに不比等邸を訪れ、正一位太政大臣を送る使いの役を果たしたのも、父親の代からの藤原氏と大伴氏の関係があったからだとされた。当時、旅人がその鎮圧の任に当たっていた隼人の反乱や蝦夷の反乱、さらには逃亡農民の増加と言った社会不安が増す中、不比等はその四子が政界に位置を占めつつあったとは言え、後事に不安を感じ、そのことを託すために旅人を九州から呼び戻したのだという。旅人はその死に目に会うことは出来なかったが、この頃には政治の中枢に位置を占めつつあった房前などからその意志を伝え聞いたと想像する。そして、旅人が親長屋王派の一員であったという一般的な理解は、藤原派vs長屋王派といった一面的な構図から憶測されたことに過ぎないとする(事実そのことを証明する資料はない・・・三友亭)

とすれば、なぜ旅人は太宰府に向かわねばならなかったのか・・・その職務が後の時代とは違ってまだ実質的であったにしろ、旅人の前後の太宰師は遥任して自分は都にあって他職を兼ねる事が多かった中、なぜ旅人がわざわざ老体にむち打って筑紫まで赴いたかについては疑問が残る。

林田氏はこれを希望の赴任だとする。太宰府長官の任は九州全域の治安維持に加えて大陸との交渉の場として重要な位置を占める任であり、当時の旅人の正三位という位階に相応の職であると言える。加えて大伴氏は古来、大陸との交渉において重要な場面に必ずと言ってその名が出てくるほど外交とは関わりが深く、事実父安麻呂も兼職ではありながらこの任についていた。旅人にとって不足があるはずはない。

さらには旅人はほんの数年前征時節隼人大将軍として、南九州にあった反乱の鎮圧に当たった実績があり、自らもその実績の上に、さらに九州の安定を図りたいとの希望があったと考えられる。

最期に林田氏はそこに旅人の藤原氏への配慮があったのだとする。旅人がもし藤原氏の策謀・・・長屋王の変・・・の際に都にあったとすれば、好むと好まざるとに及ばずいずれかの立場に身を置かなければならなかったことは確かである。父の代から藤原氏とは一定の関係を持ち、一方では旧来の氏族の雄たる立場にある大伴氏の氏の上としては、どちらにも尽きたくなかったのではないか・・・すなわち、旅人は藤原氏長屋王排除の策謀を持っていることを薄々感じつつ、そこで生じうる軋轢を避けんがため自ら都を離れたのだと言うのだ。

さらに氏は続ける・・・

もしこの人事が左遷人事であるとしたならば、藤原氏にとってこれほどまずい人事はない。何となれば、太宰府には大陸からの侵攻に備えて配置された大軍団がある。防人だ。もし旅人が藤原氏の人事に不満を持ち、或いはその策謀に憤りを感じ、これらの兵力を持って都に攻め込んだとすればどうなるか。後の藤原広嗣の乱を例に出すに及ばず、藤原氏を震撼させるに足る大勢力がそこにはある。これに佐伯氏を始めとした大伴氏との関係ある氏族(むろんこれが長屋王の変以前であれば、長屋王とも呼応して)、東国の豪族達が呼応すればどうなるか・・・そんなことを読めない藤原氏ではなかろうと思う。

林田氏の考えを援用するのはこれにとどめるが、このような関係があったからこそ藤原の長たる房前と大伴の長たる旅人の件の贈答があり得たのだ。

大筋において林田氏のお考えは、今回私が考えていたことと通じている。けれども、細部においては全く一致していると言うことはない。したがって、次に私は私なりの考えを提示しなければならない。が、今回は少々長くなってしまった(いつものことだけれど)。戯れ言はまだまだ続く・・・・