読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴旅人と藤原房前・・・3

前回は、この度私が話題として取り上げている藤原氏と大伴氏の関係について、さらには大伴旅人の筑紫下向の意味について林田正男氏の御論文を援用しつつ、この件に関して奈良時代前期の政治的状況について、従来いわれているような長屋王を中心とした旧勢力vs新興貴族の藤原氏といった構図はやや一面的に過ぎないかということを、藤原氏と大伴氏の関係にふれつつ自らの考えをご紹介した。今回はその同時代資料ともいうべき萬葉集を通じてこの二氏の関係をもう少し丁寧に見て行きたいと思う。

萬葉集は周知の如く、大伴旅人の息子大伴家持がその編纂に大きく関わっていた。それに加えて、その編纂の際には資料として大伴氏が所蔵していたと思われるものが結構多く用いられていたとされる。さすればその中で藤原氏がどのように扱われているかを見ることによって、大伴氏(あるいは大伴氏側の氏族)の見た藤原氏像の一端が窺われるかも知れないと思うからである。ことは思うように進むかどうかは分からない。以下しばしお付き合いの程よろしく申し上げる。

まず最初の3首、乙巳の変を端緒とする一連の政治改革運動(俗に言われる大化改新)の功臣である中臣鎌子こと藤原鎌足の3首である。

内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首 玉櫛笥 覆ふを安み 明けていなば 君が名はあれど 吾が名し惜しも 内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首 玉櫛笥 みむろの山の さな葛 さ寝ずはつひに 有りかつましじ

萬葉集巻二・93/94

内大臣藤原卿娶釆女安見児時作歌一首 我れはもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすとふ 安見児得たり

萬葉集巻二・95

鏡皇女は天智天皇の妻にして後に藤原鎌足の妻となった女性。その女王が夜が明けてから自分の家から出て行く鎌足に「そんなにゆっくりされたらご近所さんに見られちゃうじゃないの。あなたが噂の種になっても良いけど、私の名が噂の種になるのは堪えられないわ。」といささか自分勝手に訴えたのに対して、「あんたはそんなふうにおっしゃるが・・・私と共寝せずにはいられないんでしょう・・・」とやり返したのが最初の二首。

夫婦であれ男が女のもとに夜な夜な通うのがならいの時代、男は周囲に気づかれないように夜が明けぬうちに女のもとを出るのが一般的であったが、鎌足はそうはしなかった。自らの権力を持ってそんな声は封じ込めてしまおうとの了見かどうかは知らないが、女の側はたまったものではない・・・と、何時までも自分のそばから離れたがらない鎌足に向かっていささか自己中心的な恨み言を述べたのが鏡女王、そんなことをいっても俺無しでは生きて行けないだろうと尊大な態度を示す鎌足。

額面通りに受け取れば、そこには少々ぎくしゃくした男女関係が浮かんでくる。ただし、この時代の贈答歌・・・殊に親しい男女間においての贈答においては相手をやり込めようとの歌が少なくはない。そのことが互いの絆の深さを測る物差しになるのである。すなわち・・・この二首に見られるそのぎくしゃくとした雰囲気はそのまま二人の関係の深さを物語っているのである。

三首目は鎌足が天智天皇から采女の安見児を下された時にその喜びを歌ったもの。「私はまあ安見児を得たぞ。皆さんがたが得がたいものにしている安見児を得たんだぞ。」ほどの意味。まあ、手放しの喜びようである。采女とは、古代の朝廷において、天皇や皇后に近くに仕え、食事など、身の回りの雑事を専門に行った女官のこと。場合によっては天皇の妻となりその皇子をなすこともあった(大友皇子志貴皇子)。後の時代にこれを制度化した大宝律令の後宮職員令によればその内容は以下の通りである。

・13歳以上30歳以下であること。 ・出身は郡少領以上の姉妹か娘であること。 ・容姿を厳選すること。

三つ目に容姿を厳選することとある事からも窺い知れるように、いずれも美人揃いで官人達の憧れでもあったのであろう。しかしながら采女達は天皇の所有物であり、これに手を出すことは罪を被ることを意味する(萬葉集にも采女に手を出して流罪になった男を哀れむ歌がある)。その采女を賜ったのである。鎌足が喜ばないわけはない。そんな思いが自慢げに「皆人の 得かてにすとふ」と歌うところによく示されている。

また女が一族の祭祀を担っていたこの時代、地方豪族がその家の女を天皇に差し出すことはその祭祀権を天皇に委ねる事を意味した。すなわちこの采女のシステムは、豪族達の祭祀権を天皇が独占することにより権力の集中をはかったものとする考えもなされている。とするとこの場合、天皇が独占した祭祀権の一部を鎌足が分け与えられたことをこの歌が示すことになり、並々ならぬ信望が鎌足にあったことを示す。

そういえば先の二首も、かつて天智天皇の妻であった鏡王女と鎌足のやりとりであった。天智天皇は、やはりその功績の大きさを斟酌し自らの妻を鎌足に下したのであろうと考えることが出来る(この点については、一部に鏡女王は「女王」とあるからには皇女であり、当時の文法からすれば臣下の鎌足がこれを娶ることはあり得ないとする考えもある)。

とすれば、この三首を通して浮かんでくるものは、天智天皇の鎌足の功績に対する絶大なる評価である。間に壬申の乱などの変動を含みはするものの、後の律令社会は乙巳の変を端緒とする一連の政治改革運動の賜物であることは動かせない。とするならば、萬葉集の編者達はこの三首を万葉集に収録することで、藤原氏の創始者である鎌足を強く顕彰しようと意識を持っていたのではないかとも考えられる。むろん、優れて文学的な営みである歌集の編纂と政治的な意図をない交ぜにすることは出来ないと思うが、少なくとも結果としては上記のような意識が見て取れるといわれても仕方がない。

ところでこの三首がおさめられている万葉集の巻二は巻一とともに奈良時代初期、元明天皇の頃に原万葉集ともいわれる巻一の1~53を増補するようにして編纂されたのではないかともいわれている部分で、いわば準原万葉集とも呼べる部分であるとも言える。そこには皇室・・・おそらくは元明天皇あたりの意図が働いているともいわれ、太安万侶らがその編纂に関わっていたのではないかと目されているが、いずれにしてもその様態のありようからその編纂には公の意志が働いていたことは認めざるを得ない。したがって、ここからは大伴氏の藤原氏観をうかがうことは出来ない。

ただし、強弁の誹りを恐れずにいえば、仮に原資料がそうあったにしろ、最終的な編纂の際に気に入らない部分は削除することは可能である。したがってそれをせずに藤原鎌足を顕彰するようなこの三首をそのまま載せているのは、編集に大きく関わった大伴家持藤原氏観を見て取れるとも言える。

話はつづいて不比等、そしてその子達の藤原四兄弟に進むはずであったが、またまた長くなってきた。このようなペースでは何時になったら思うことを述べきることが出来るか分からないが・・・話は次回に続く。