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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴旅人と藤原房前・・・4

万葉集 文学のこと 歴史のこと

鎌足に続いて藤原氏で名をなすのはご存じ藤原不比等である。不比等は鎌足の第2子。11歳の時、父鎌足が死去し、有力な後ろ盾を持たずに出仕した不比等は下級官人からのスタートを余儀なくされた。阿閉皇女(後の元明天皇)付き女官で持統末年頃から不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の助力によって皇室との関係を深め、文武の即位直後に娘の藤原宮子を文武夫人ととすることに成功する。宮子は首皇子(後の聖武天皇)がなし、さらに橘三千代との間の娘である光明子聖武天皇に嫁がせることに成功するや、不比等の政界における位置は動かぬものとなった。まさに後の藤原氏の繁栄の基盤を固めた人物と入って良い人物である。

そんな不比等ではあるが萬葉集にはその名を見せてはいない(これが不比等の歌ではないかとも考えられる歌が数首あるが、それらについては後ほどふれることにする)。ただし、不比等大宝律令の制定に大きく関わり律令社会の牽引車であったこと、天平勝宝3年(751~752)完成の我が国最初の漢詩集、懐風藻に5首の漢詩が載せられていることなど、和歌よりも漢詩をよくなす漢才の人ではなかったかと思われ、万葉集にその歌が残されていないのも故無しとしない。

続いて4兄弟である。この4人のうち長男の武智麻呂を除く3人が萬葉集にその作を残している。

まずは上から順番に、次男の房前である。房前は政治的力量は不比等の息子達の間では随一と考えられており、不比等から藤原氏の氏の上としての実権を継いだのが兄の武智麻呂であり、政治家としての位置を受け継いだのが房前であると考えることが一般化されてると言ってよいだろう。その昇進の速度は兄の武智麻呂とほぼ同じであったが、霊亀3年(717)に武智麻呂に先んじて参議となる。元明上皇の死の床で祖父・鎌足以来の内臣に任じられ、皇太子首皇子の後見役をなすことになり、政治的には兄を遙かに上回る実権を握ることになる(これが長屋王の変以降に入れ替わること、後に述べる)。そんな房前が萬葉集に残した1首は以前紹介した梧桐日本琴を介した大伴旅人との贈答歌である。この1首が今回の話題の基点となっていることは先に述べたとおりであるが、この短歌、及び付随する書簡については既述の如くである。おそらくは大伴旅人の手元に残されていたものが萬葉集編纂の際の資料として用いられたのであろう。他に懐風藻に3首の漢詩を残している。

次は3男の宇合。宇合は続日本紀霊亀2年(716)に遣唐副使に任ぜられるとあるのが、初見の史料である。養老元年(717)入唐し翌年10月に帰国する。はじめ「馬養」とその名が表記されていたが、遣唐使の副使として入唐後「宇合」と表記されるようになった。この入唐が彼の立身のきっかけとなり、養老3年(719)7月に各地に按察使が設置された際に常陸守として安房、上総及び下総3国の按察使に任命される。神亀元年(724)4月には式部卿の任にありつつ持節大将軍に任命され出兵し、蝦夷の反乱を平定。神亀3年(726)式部卿のまま知造難波宮事に任ぜられ後期難波宮造営の責任者となる。おそらくは遣唐副使として唐の都長安を見た経験が関わってはいないかと考えられる。その時に彼の地で身につけたであろう知識を見込まれての人事であったのだろうか。この任を全うした際に詠まれたのが

式部卿藤原宇合卿 使改造難波堵之時作歌一首

昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今都引き 都びにけり

藤原宇合万葉集巻三・312

である。この後天平元年(729年)の長屋王の変の時は六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲するなど、その最前線において対応。天平4年(732)には、参議・式部卿として西海道節度使に任じられる。この時の詩が懐風藻に残されている。

西海道節度使を奉ずるの作

往歳東山の役   今年 西海の行 行人一生の裏  幾度か邊兵に倦む

遣唐副使に任じられたと言うことからは、その学才の深さをうかがい知れよう。その学才は養老3年からの常陸国司の在任中の、常陸国風土記の編纂につながって行く。その下で尽力していたのが高橋虫麻呂ではないかとの考えも広く行われている。また武の道にも長けていたらしく神亀元年蝦夷の平定、天平元年長屋王の変への対応、天平4年の西海道節度使への任命はその事実を物語っていると言えよう。

また文才にも優れ、万葉集に6首の作を残すほか、懐風藻にも6首の漢詩が収録されており、尊卑分脈宇合卿伝には「軍国の務めを経営すると雌も、特に心を文藻に留む。天平の際、独り翰墨の宗と為る。集二巻有り。猶伝はるな」記されているがごとく詩才にも恵まれていた。先に挙げた1首以外は以下の如し。

大行天皇難波宮に幸す時の歌

玉藻刈る 沖辺は榜がじ しきたへの 枕のほとり 忘れかねつも

右の一首は、式部卿藤原宇合

万葉集巻一/72

藤原宇合卿の歌

我が背子を いつぞ今かと 待つなへに 面やは見えむ 秋の風吹く

万葉集巻八/1535

宇合卿の歌 暁の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す波の しきてし思ほゆ 山科の 石田の小野の 柞原ははそはら 見つつや君が 山道越ゆらむ 山科の 石田の杜に ぬさ置かば けだし我妹わぎもに 直に逢はむかも

萬葉集巻九/1729・1730・1731

最初の1首(71)、「大行天皇難波宮に幸す時」とは慶雲三年(706)の時のこと、懐風藻の記述に従えばこの時宇合13歳。何とも早熟な事であるが、後に常陸守の任を終える際にその地元の女から

庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたまふな

常陸娘子万葉集四/521

なんて歌を贈られた宇合のことだから、その道の方にも早熟な才能を示していたのだろう。常陸娘子については詳しくはわからない。おそらくは地元の遊行命婦と呼ばれた遊女であったのだろうとおもわれる。政権トップにあった不比等の御曹司宇合は東国の遊行命婦の目にはことさら眩しく見えたに違いない。むろん、彼女はプロの女である。けれども、この歌から感じ取れる真心には偽らざるものを感じる。主観に過ぎるかも知れないが、たとえプロの女であってもきちんとそのような仕事が確立してはいなかったこの時期、彼女は職業を忘れてしまっていたように思える。

別れの時はやってきた。彼はいずれ都に帰らねばならぬ身。それを彼女はよく知っていた。そして、自分はそれについては行けない身であることも。知っていたはずなのに、いざその時になれば・・・・簡単に割り切れるものではない。・・・あの人は都に去ってしまう。こんな田舎娘なんて都の華やかな女達から見ればとるにたらないはず。きっと忘れられてしまう。けれども、あの方と過ごしたこの2年は紛れもなく真実。そんな簡単に忘れて欲しくはない・・・・・そんな思いが彼女の胸中によぎったのであろう。そして、その思いを歌にした。

「庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 」はおそらく誇張であろうが、彼女はそんな自分を宇合と引き比べたときこのように表現せざるをえなかったのだと思う。そんな東国の女のせめてもの願いが「忘れたまふな」である。さてその願いを宇合はかなえたのであろうか・・・・忘れてしまっていたのなら、この歌は現代には伝わらず歴史のあわいに消えてしまっていただろう。

そして・・・その控えは他のいくつかの歌々とともに最終的には万葉集の資料となる何らかの歌の集におさめられた。そしてその資料は、前後の歌の並びからいって大伴旅人の妹(家持の叔母)大伴坂上郎女の手元にあったと考えられる。また同じ観点から見れば、上に上げた5首のうちの巻八/1535の歌もその配列からいって大伴氏の資料にあった歌と考えて差し支えないものとみて良いだろう。


 

さて残されたのは4兄弟の末っ子藤原麻呂萬葉集を見る限り、この4兄弟の中で最も大伴氏と関わりを強く持ったのはこの麻呂であった・・・しかしながら、今回も少々長くなりすぎている。麻呂までの話をして終えるのが一番すっきりするのだが、これから先、この戯れ言にもうしばらくお付き合いをお願いしなければならない。みなさんにはあまりの長言にうんざりされても都合が悪いので・・・麻呂については次回ということでご勘弁願いたい。