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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴旅人と藤原房前・・・5

長く際限のない妄想にお付き合いいただいている。はじめは2回ぐらいで終わってしまう予定であったが、書くほどに妄想は広がり皆さんにはダラダラとした戯言にお付き合いいただいている。それもあと2回ほどで終わりそうになってきた。またかとお思いであろうが、あと少しお付き合いいただきたい。


 

藤原4兄弟にあって、少なくとも萬葉集を見る限り最も大伴氏と関わりを強く持ったのは末っ子の藤原麻呂であった。麻呂は霊亀3年(717)、続日本紀に美濃介に任ぜられたとあるのが初出。同年養老に改元された後の11月従五位下。そして養老5年(721)に一挙に5階昇進して従四位上となり、同年6.26に左右京大夫に任ぜられる。その後薨じるまでに従三位まで昇進、参議・兵部卿を歴任する。この間の功績としては神亀6年(729)、長屋王の変の後、「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上し、天平改元されるきっかけを作る。おそらくは長屋王の変という重大事件後の朝廷内の陰鬱な空気を振り払わんがための演出なのであろうが、この功績が認められてか従三位に昇進する。同年11月には山陰道鎮撫使、天平4年1.には珍しい白雀を献る(どうもこういう吉祥がお好みのようだ)。天平9年(737)年には持節大使として陸奥において、多賀柵より雄勝村へ至る道に力を尽くす。

以上が藤原4兄弟の末っ子の経歴となるが、その華々しい政治的な来歴とは別に妙に気が惹かれる人物である。

僕は聖代の狂生のみ ただ風月をもつて情となし、魚鳥を翫びとなす 名を貪り利を狥むることは、いまだ沖襟に適はず 酒に對しては當に歌ふべし 是私願に諧へり

自分は太平の世の変わり者である。 風月の趣を味わい、魚鳥をして楽しむだけ。 名誉や金を求めることなんて私の心の中に無い。ただただ、うまい酒を愛し歌うことだけが私の願いである

とは「五言 暮春於弟園池置酒 一首」と題された五言詩の序文の冒頭部であるが、この一節が彼の真意の発露であるとすれば彼が当時の政界に築いていた立場からすれば、その立場は彼の望まざるものであったことになる。また尊卑分脈麿卿伝にも、その人となりは弁舌に恵まれ、文才は豊かであったが琴酒に耽溺し、常々「「上には聖主有りて、下には賢臣有り。僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ。」と語り、その臨終の際に朋友達は血の涙を流したと書いてある。むろんこれを額面通りに受け取ることは出来ないが、「五言 暮春於弟園池置酒 一首」の序文からはそうありたいものだという麻呂の願望を読み取っても差し支えないし、それは尊卑分脈麿卿伝にある常々彼が語っていたという言葉とも矛盾しない。案外愛すべき人物だったのではないか・・・そんな気がする。

その麻呂が大伴氏の女と通じていた一時期があった。

京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首

娘子らが玉櫛笥なる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも

万葉集巻四/522・523・524

大伴郎女和歌四首

佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは 来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを 鳥鳴く佐保の川門の瀬を広み打橋渡す汝が来と思へば

萬葉集巻四/525・526・527・528

右郎女は佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁し、寵を被むることたぐひ無し。皇子薨ぜし後、藤原麻呂大夫之の郎女をつまどふ。 郎女家は坂上の里にあり。仍りて族氏なづけて曰はく坂上郎女と。

題詞には大伴郎女とあるがここは左注にあるように大伴坂上郎女のこと。その大伴坂上郎女藤原氏の御曹司、藤原麻呂が娉ったというのだ。「娉」とは「求婚」のこと。坂上郎女は初め穂積皇子に嫁ぎ、その皇子が715年の薨去しているので、それ以降のこと。後に郎女は異母兄大伴宿奈麻呂に嫁ぎ、坂上大嬢・坂上二嬢を儲けているので、この贈答はその間のことになる。そのあたりの詳細や歌々の読みについては鉄野昌弘氏の「藤原麻呂と大伴坂上郎女の贈答歌」に詳しく、私にはそれ以上のことを述べる用意はない。故に仔細はそちらに委ねるとして、ここはその恋が成就したかどうかはともかくとして、藤原4兄弟の末っ子と後に大伴氏の家刀自となる女性がある時期に一定の関係を持っていたことに注目したい。郎女が後に宿奈麻呂に嫁いでいることから、この二人の恋は程なく終わりを告げたことが推定がされるが、少なくとも麻呂の3首を読む限りはこの二人は数度は夜をともにしたことが見て取れる。そしてその顛末の一部が坂上郎女の手元に覚書に残され、そして万葉集の資料になったことがここから確認できる。

さて以上の如く、藤原4兄弟のうちの3人の歌が大伴氏側の資料に残され、そこから万葉集に収録されたという事実があった。これは思われているような、反目し合う関係が藤原氏と大伴氏の間には存在しなかった・・・ということを示しているように私には思えて仕方ない。むろん政治上しのぎを削る関係はこの2氏の間にはあったであろうが、それは互いを排除しあうような関係ではなかった。或る時には互いの力を利用しあい、またある時にはその為に融和をはかろうとする・・・そんな関係にあったのではないか・・・

・・・私にはそんなふうに思えて仕方ないのだ。そしてこのことは時代が下ってその子供たちの世代・・・家持の時代にあっても変わらなかった。

万葉集巻四の末尾には藤原武智麻呂の子、藤原仲麻呂の2男藤原久須麻呂が家持の娘を妻に求めた時に家持の返した歌が残されており、久須麻呂もまたその歌に丁寧な返歌を詠んでいる(萬葉集巻四786~792)。

もしも言われているように旧勢力の雄である大伴氏と新興貴族である藤原氏が互いを排除しようとする関係にあったとするならば、以上に見られてきたような歌々は萬葉集には収録されてはいなかった・・・と私は考える。そして件の房前と旅人の贈答はこのような視座の上に立って読まねばならないのではないか・・・というのが今回私が述べたかったことである。