大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大伴旅人と藤原房前・・・捕逸

5回にわたって奈良朝前期における藤原氏と大伴氏の関係について、思うところをくだくだしいまでに述べてきた。ここまでお付き合い願えた方には本当に何とお礼を申し上げて良いか分からないが、そこには従来いわれているような新勢力と旧勢力との反目や排除しあおうとする教科書的な対立の構図が見ることは出来なかった。

むろんそれぞれが一定の位置を朝廷の中に占める氏族であるからには権力をめぐってしのぎを削りあう関係があったことは否めないであろう。が、この両者の関係はそれのみにとどまることはなく、一種の協調関係のようなものが存在していたのではないかと私は思う。そしてその視点において万葉集に残された藤原房前大伴旅人との「和琴」を介しての贈答も理解されねばならないと前回は結んだ。

今回は、その藤原房前にまつわるところの些細な疑念についてちょいと云々してみたいと思っている。

これまた教科書的な理解によれば、長屋王の変光明子立后を目論む藤原4兄弟が結託しこれを阻もうとする長屋王を排除しようとしたところにその端を発したことになっている。つまり4兄弟は一枚岩となって自分たちの権力掌握の障害となっている長屋王を除いたという理解である。

もちろん私とて藤原氏長屋王を死に至らしめたことを否定するわけではない。ただ・・・4兄弟が一枚岩となってこの変を遂行した・・・というところがどうにも解せないのである。

二月辛未(10日)。左京の人從七位下漆部ぬりべ君足きみたり、无位中臣宮處なかとみのみやこ東人あづまひとひそかごとを告げて「左大臣正二位長屋王私かに左道を學びて、國家を傾けんと欲す」とまうす。其夜、使ひをつかはして、固く三關さむぐゑんを守らしむ。因りて式部卿從三位藤原朝臣宇合うまかひ衛門佐ゑもんのすけ從五位下佐味さみ朝臣虫麻呂、左衛士佐さゑじのすけ外從五位下津嶋朝臣家道、右衛士佐うゑじのすけ外從五位下朝臣佐比物さひもち等を遣はして、六衛りくゑいくさゐて長屋王の宅をかくましむ。 壬申(11日)。大宰大貳だざいのだいに正四位上多治比たぢひ眞人縣守あがたもり、左大辨正四位上石川朝臣石足いはたり彈正尹だんじやうのゐん從四位下大伴宿祢道足みちたりを以てかりの參議と爲す。巳の時に、一品舍人親王とねりのみこ新田部にひたべ親王、大納言從二位多治比眞人池守いけもり中納言正三位藤原朝臣武智麻呂、右中弁正五位下小野朝臣牛養うしかひ少納言外從五位下巨勢こせ朝臣宿奈麻呂すくなまろ等を遣して、長屋王の宅に就きて其罪を窮問せしむ。 癸酉(12日)王をして自らなしむ。其の室二品吉備内親王きびのひめみこをのこご従四位下膳夫かしはで王、無位桑田王、葛木かづらき王、鉤取かぎとり王等同じく亦た自らくびる。乃ち悉く家内やぬち人等ひとどもを捉へ左右さうの衛士、兵衛ひやうゑ等の府にいましめ着く。

 

これが長屋王の変の顛末である。自尽した長屋王、妻の吉備内親王生駒山の近くにそろって葬られたこと、その葬儀に当たっては妻である吉備内親王は通例に従って行うべきこと(ただし鼓吹は認めない)、長屋王は犯罪者として葬ること(ただし礼を失しないこと)についての記事が13日に記され、その後もこの事件の処理についての記事は幾日か続く。

私がどうにもわからないのは・・・なぜこの一連の記事の中に藤原房前の名が出てこないか・・・ということだ。結論から先の述べることをお許し願いたいが、愚案としては長屋王の変藤原武智麻呂が主導して行ったもので、房前は関与していなかった・・・というよりは蚊帳の外に置かれていたから、この一連の記事にその名が見えないのだ・・・となる。

まず事が発覚した10日の記事。漆部造君足、中臣宮處連東人の2人が長屋王に国家転覆の意志ありとの密告がある。これを受けて畿内に通じる三つの関所を封鎖し、藤原宇合長屋王の宅を六衛兵を引き連れて包囲する。事は綿密に謀られていたのであろうか、その行動は迅速で長屋王は包囲されるに任せるしかなかった。六衛兵とは衛門・左右衛士・左右兵衛・中衛府の6つの衛府の総称で、天皇の日常や行幸時に付き添い、身辺警護をはじめ、宮城の警護、京内の夜間巡回などを主な任務とした。就中、中衛府は最も天皇の近くにあってこれを警護するべき役所であって、6つの衛府にあってはその中核的な組織である。そしてこの時の中衛府の長は藤原房前であった。

つまり、本来ならばかくのごとき重大事があったならば先頭に立って事の処理に当たるのは藤原房前であって決して宇合ではなかった。宇合はこの時式部卿であったが、式部省は文官の人事考課や礼式、または人事管理や役人養成機関である大学寮を統括するのがその本来の任である。そんな役所の長である宇合がなぜ本来六衛の兵を統括するべき房前をさしおいて、これらの兵を引き連れて長屋王宅を包囲せしめたのか・・・どうにも解せない。しかもその下で兵を率いたのは衛門佐、左衛士佐、右衛士佐といずれも「佐」・・・すなわち次官であって長官ではない。ここにどのような理由があったのか、続日本紀は残念ながら示し得てはいないが、敢えて推察するならばそれぞれの所属のかみ・・・長官・・・であるならば、左大臣であった長屋王、あるいは中衛の大将藤原房前と接触する機会があり、そこから事が露見する恐れがあったからではないか。そしてそれらの兵を統括するのは藤原氏にあって式部卿の任にありつつ持節大将軍に任命され出兵し、蝦夷の反乱を平定した実績を持つ宇合が適任であったのだ。

続いて11日。とってつけたような人事があった。大宰大貳正四位上多治比眞人縣守、左大辨正四位上石川朝臣石足、彈正尹從四位下大伴宿祢道足がこの人事により權參議となったのだ。「權」とはここでは「かり(仮)」の意と解して良い。参議以上が国政に関わる権能を有するが、国家を左右するような重大事件のあった翌日のこの人事はその討議のためより多くの意見をくみ取るためのものと思われるが、その後の推移を見るに長屋王排除のために多数派を形成するためのものであったと考えるのが妥当のように思われる。次の一覧を見て欲しい。

太政官事  一品舎人親王 左大臣     正一位長屋王 大納言     従二位多治比眞人池守 中納言     正三位大伴宿称旅人   正三位藤原朝臣武智麻呂(三月四日大納言)   従三位阿部朝臣廣庭 参議       正三位藤原朝臣房前 権参議              正四位上多治比眞人縣守   正四位上石川朝臣石足    從四位下大伴宿祢道足

事件当時の太政官の構成である。ここから、この日急遽参議となった3人、当該の長屋王、そして太宰府にあった大伴旅人を除くと次のようになる。

太政官事      一品舎人親王 大納言              従二位多治比眞人池守 中納言              正三位藤原朝臣武智麻呂   従三位阿部朝臣廣庭 参議                  正三位藤原朝臣房前

房前が長屋王の擁護にまわり、長屋王の義父阿部廣庭が強力に長屋王の擁護に回ったとしたならば、必ずしも太政官全体の意志が長屋王排除の方向に動くとは言えなかった。そこで武智麻呂は急遽自分に同調すると思われる3人を参議としたのだ。でなければ、この緊急時にあまりに急の人事は考えにくい。おそらくはその見返りであろうが、3月4日、これら3人の昇進があった。そして同じ日武智麻呂が位階はそのままであっても、中納言として上位にあった大伴旅人を追い抜いて大納言に昇進した。

話を元に戻そう。この日巳の時に、舍人親王新田部親王、多治比眞人池守、藤原朝臣武智麻呂、小野朝臣牛養、位下巨勢朝臣宿奈麻呂が長屋王の宅を訪れその罪を窮問する。ここにも房前の名は見えない。この日急に太政官に組み入れられた3人を除き、この窮問に参加しなかったのは長屋王の義父阿部廣庭と房前のみである。舍人親王新田部親王がここに名を見せるのは相手が皇親であり格上の左大臣である以上、これを問い詰めるためにはそれなりの重しが必要とされたからだと考えられよう。阿部廣庭は上記のような理由にて外されたものかと思われる。

そして12日、長屋王の一族はことごとく死を賜った。その後事後の処理が粛々と行われ、功労者達は応じた昇進人事を受けることになる。そして太政官の構成は幾度かの変遷を経て天平3年8月には以下のようになる。

太政官事      舎人親王 大納言        藤原朝臣武智麻呂 中納言         阿部朝臣廣庭 参議             藤原朝臣房前     藤原朝臣宇合    多治比眞人縣守       藤原朝臣麻呂   鈴鹿王     葛城王      大伴宿称道足

※多治比眞人池守(天平2年9月死去)大伴宿称旅人(同3年7月死去)

藤原武智麻呂体制の確立を見るのであった。阿部朝臣廣庭が半年後に没するや、房前以外はほぼ武智麻呂の息のかかったものばかりとなった。

さて、私は上で
愚案としては長屋王の変藤原武智麻呂が主導して行ったもので、房前は関与していなかった・・・というよりは蚊帳の外に置かれていたから、この一連の記事にその名が見えないのだ

と述べた。そしてそのことを反映するかのように、この長屋王の変の功労者であった人々が軒並みに昇進を遂げている中で、房前はそれ以前の参議に留め置かれたままであった。同年9月に中務卿に任じられはするが、この職は天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など、朝廷に関する職務の全般を担っていた為に、八省の中でも最も重要な省とされたものの、正四位上相当の職で正三位であった房前にとってはやや格下げの人事であったように思える。

ならば・・・房前はこの事件においてなぜ蚊帳の外に置かれたのであろうか。私の思いつく理由は2つである。

その一つ目。この表をちょいと覗いて欲しい。

旅人・房前・武智麻呂の履歴対照表

二人とも順調といえば順調なペースで昇進を重ねているが、注目するべきは717年。715年にともに従四位下に昇進した2人ではあったが、この年房前のみが参議に昇進している。参議は太政官を構成する重要な職。国政に自らの考えを反映させることの出来る職である。当時太政官には各氏から1名というのが原則で、不比等が健在であったこの年、房前が参議となれば藤原氏からは2名が太政官に加わったことになり、極めて異常な人事であった。いくら不比等の権力が絶大であったとしても、そこには房前の並外れた政治力というものがなければ周囲がこれを認めることはなかっただろうと思う。

武智麻呂は680年生まれでこの年37歳。房前は681年生まれの36歳で、1歳違いの兄弟ではあったが、武智麻呂はこの翌年式部卿という重職に就くが、これとて房前には及ばない。この事実を武智麻呂は、兄としてどのような気持ちで受け取ったであろうか。

さらには721年。武智麻呂は中納言として晴れて太政官の仲間入りをするが、これとて前年の不比等の死去を受けての補充人事。藤原の長としてその長男にこの職が回ってきたに過ぎない。これに対し房前はさすがに表向きの地位は兄に譲りはしたが、実質的にはその上を行く任を死を間近にした元明上皇より託されていた。曰く、

汝卿、房前、まさ内臣うちつおみと作りて内外を計会し、勅に準じて施行して帝業を輔翼し、永く国家をやすんずべし

内臣とは天皇の最高顧問で天皇を擁護して政務の機要を掌握する大臣に匹敵する官職。常設の官職ではなく、房前はその祖父藤原鎌足以来初の内臣に任じられたのだ。見方によればこの人事は房前の力量が鎌足に匹敵するものだという評価の表れとも言えるであろう。そして、その職が大臣に匹敵する官職である以上、職権としては兄武智麻呂を超える任であった。またさらにはこの頃房前は天皇の直属兵たる授刀寮(後の中衛府)の長、授刀頭(後の中衛大将)の任にもついたらしく、軍事的な権力をも手にしていた。

武智麻呂は通説によれば680年生まれ、房前は翌年の681年の生まれである。一つ違いの兄として上記のような状況をどのように感じていたのだろうか。自らは藤原家の氏の上の立場を受け継ぎながら、政治上の評価は一つ下の弟に常に後手をとっている・・・むろん、これは推測に過ぎないが内心に忸怩たるものがあったとしても、それはさして不自然なものではなかったように思う。そんな状況を解消しようとの思いが長屋王の変の背景にはあったのかも知れない。

ならば、その解消のすべがなぜ長屋王の排除という形で行われたのか・・・これは二つ目の理由と重なってくる。

上にも述べたように、房前は721年に元明上皇により内臣に任じられた。10月24日のことであった。実はこれに先立つ13日、元明上皇はその病床に長屋王と房前を招き自らの葬儀のありようについて、葬るべき場所や警備のありようまで事細かに指示をしている。己の死を間近に控えた人間がかような指示を長屋王と房前に与えたことは、上皇がいかにこの両者を信頼していたかがうかがわれるが、はたしてこの2人が反目しあうような関係(そこまで言わずとも政治的な路線が異なっている関係)にあったならば、この事は可能であっただろうかと私は思う。

この時の太政官の構成を見れば、13日段階では房前の上には大納言の多治比真人池守、中納言巨勢こせ朝臣祖父おじ、同じく房前の兄武智麻呂がいる。そしてこの段階ではまだ房前は内臣には任じられてはおらず、中納言よりも一つ下の参議であった。この事はひとえにこの2人が政治的立場が元明上皇の思う線上にあったことを示すのではないか。とすれば必然的に房前もまた長屋王と同様の路線にあったことを意味する。そしてこの事は当然のことながら兄武智麻呂とは政治的な路線が房前は異なっていたと言うことになる。同じ不比等の子でありながら、藤原氏中心の政治体制を目指す武智麻呂と皇室を中心とした旧来の政治体制を目指す房前がそこにはいたのである。

だからこそ、ひとまわり以上離れた二人の弟、宇合と麻呂は長男の武智麻呂についたのであった。房前の路線で世が進んで行くならば、3男・4男の自分たちは日を見る機会が無くなる。武智麻呂はこの事を訴えて2人の弟たちを自らの陣営に巻き込んだのではないかと考えることが可能だからである。

以上のように考えることが許されるならば、長屋王の変は二重の意味での権力闘争であった。藤原氏中心の政治体制を目指す藤原武智麻呂と皇室を中心とした旧来の政治体制を目指す長屋王藤原房前との・・・そして、藤原氏内での武智麻呂と房前との・・・そしてそのいずれにおいても敗北を味わった房前に大伴旅人梧桐の日本琴に添えて一篇の書状と2首の短歌を贈ったことには、これまで考えられてきたことは違った意味合いがあったように私には思われてならないのである。


長々と三友亭の世迷言にお付き合いいただいた。9月にブログ強化月間などと人まねをしてだいぶ調子が狂ったらしい。ただ今回の連続投稿で書いたことはかなり以前に件の大伴旅人藤原房前のやり取りを別ブログに書いたときからの疑問で、かなり以前に私の頭の中で形になっていたものだ。

そこで誰か同じようなことを考えている人はいないかとあちらこちら探してみると全くいないわけでもない。なかでも

に出逢ったときはまさに我が意を得たり・・・という思いであった。2年ほど前のことである。もちろん考えることが細部に至るまで一致しているというわけではない。けれども、私が抱いた奈良時代前期における政治力学に関しての教科書的な理解に関して、私のそれと同じ方向の疑問を持っている方が、それを専門にしていらっしゃる中にも複数存在することを知りうれしかった。

よろしければ上の著書をお読みいただければと思う。私のようなものにも読めるようとても易しく書いてくださってはいるが、取り扱う問題に関しての研究史は程よく整理されているゆえに、何が問題とされているかが手に取るようにわかる。そして・・・もしお読みになって、なんか私の言ってることと違うぞ・・・というところがあったならば、それは私の言っていることがおかしいからである。遠慮なく木本氏のお考えを信じていただきたい。