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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

万葉の桜井・・・海石榴市

万葉集 大和のこと 文学のこと 歴史のこと

一昨年だったか、人様の前で桜井の万葉というテーマで話をしなければならぬ羽目になり、大慌てでその資料を作った。上のメニューにある桜井の万葉というボタンに収められたいくつかのページはその時に作ったものである。が、大慌てで作ったがゆえ(なにせお話しする日までには拵え上げねばならない)に、よそ様のサイトや様々な書籍からお知恵やらお力をお借りしたうえで拵えた・・・少々納得できないものになっていること、常々心苦しく思っていた。いつかは手直しをと思いつつ、その作業量を考えると、なかなか気が重く・・・今日までを手を付けずにいたが、いつまでもそんなふうにはしてはいられない・・・と、やっと思うことができるようになり、まず手始めに、とばかりに一つ改訂してみた。せっかくだから、こうやってブログ記事としてもアップしてみた。今後も折を見ては他のページも改訂してはブログの記事としても皆さんにお示ししてゆきたいと思う。よろしくお付き合い願いたい。


 

海石榴市(つばいち)

[caption id="attachment_7219" align="alignnone" width="400"]三輪山の麓が金谷 三輪山の麓が金谷[/caption]

現在の桜井市金屋付近にあった古代の市。ただし2004年の桜井市立埋蔵文化財センターの報告によれば古代においての泊瀬川の流路は今よりも南にあったとされるゆえ、海石榴市も今の金谷よりはもう少し南にあったか、あるいはその範囲が南に広がっていたかとも考えられる。

万葉集の時代には「つばきち」と呼ばれていたと推定されているが、現在はこれを「つばいち」と訓んでいる※1三輪みわ山の西南、初瀬はせ谷の西の入口に位置し、大和盆地を北に向かう山辺の道・上ツ道、南は明日香に向かう山田道、西は伊勢へと抜けるはつ道、そして大和盆地を東西に縦断する横大路など、古代大和における重要路が交わるところであった。このようにいくつもの道が交差するところから「八十やそちまた」との呼ばれていた。また、 初瀬はせ川による水上交通もこの辺りを起点としており、水陸の交通の要衝であった。

冬十月に百済聖明王西部せいほう姫氏きし達率だちそち怒唎斯致ぬりしちけい等を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋はたきぬがさ若干、経論若干巻をたてまつ

とは日本書紀欽明天皇十三年)の記事であるが、世にいうところの仏教公伝を記したものとして有名な記事である。この欽明天皇の「磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみや」が、海石榴市の南方のほど近い場所(現在の桜井市水道局の敷地内に「磯城島金刺宮推定地」の碑がある)に推定されている以上、「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」はこの近辺の地において船より降ろされたはずだ。とすれば、釈迦仏金銅の像が我が国の大地を初めて踏みしめたのは海石榴市・・・ということになる。

様々な道が交差したこのような場所は人が集うばかりでなく、言霊や精霊までもが集まりやすい場所であった。したがって祭祀も行われることもしばしばあったと考えられ、そのため聖なる樹木として海柘榴つばき(「椿」の漢語的表記)が植えられていたのが地名の由来となったと考えられる。椿が聖なる樹木として認識されていたのは、冬にも葉を落とさない常緑樹であるがためであろう。古代人はそこに永遠の生命を感じ取っていたのだ。

なお、そこが物流の拠点である以上は人も集まってくる。必然的に男女の出会いも多くあっただろうと推定される。歌垣うたがき※2なども多く開催されたのであろう。海石榴市を詠んだ歌はいずれも歌垣にかかわってのものと思われるものばかりである。また日本書紀武烈天皇即位前期)にも、海石榴市の歌垣のことが描かれているが・・・それは、あまりに悲しい影姫の物語※3である。


海石榴市つばきちの 八十やそちまたに 立ちならし  結びしひもを 解かまく惜しも

海石榴市のいくつにも分かれる辻に立って、広場を踏みつけ踏みつけして躍った時に結び合った紐、この紐を解くのは惜しくてならない。

 作者不詳(十二・2951)

問答歌

紫は 灰さすものそ 海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)(ちまた)に 逢へる()(たれ)

紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。

作者不詳(十二・3101)

たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行き人を (たれ)と知りてか

母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してもよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申しあげたらよいのでしょうか。

作者不詳(十二・3102)

右の二首


※1

海石榴市をそのまま読めば「tubakiiti」となるが、この際下線部のように母音が連続した際にはいずれかの母音が脱落するのが古代日本語における傾向である。また元興寺縁起にも「將三尼等至都波岐市つばきち長屋時」とあることから、古代においては「tubakiti」と訓まれていたことが考えられる。現在のようにな「tubaiti」という訓みは、その傾向からすれば古代日本語においては考えにくい変化に基づいた訓みであり、後になってからその音便形(イ音便)として派生した訓みであると考えられる。

※2

歌の掛け合いに基づく行事で、男女の出会いや求婚の場。古代の日本列島に広く存在したものと思われ、風土記万葉集に山や水辺、市などで行われた歌垣の記録が見られる。持統朝には中国から踏歌が伝わり宮廷の行事として行われた。さらには続日本紀天平6(734)年2月には歌垣と呼ばれて、貴族の男女が列をなし歌ったとある。また、同じく続日本紀宝亀元(770)年3月にも歌垣とあり、男女が並んで歌舞したという記録が残る。時代別国語大辞典上代編には「一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った」とある。

※3

武烈天皇が皇太子だった時ころ、大臣平群真鳥へぐりのまとりが強大な勢力を誇っていた。真鳥は国政をほしいままにし、数々の無礼をはたらいていた。そんなある日、皇太子は物部麁鹿火もののべのあらかびの息女影媛を娶ろうとした。仲立ちを建てて皇太子は影媛にあたりをつけようとした。が、影媛はすでに真鳥の息子しびと関係を為していた。影媛が「海石榴市つばきち(現桜井市金屋付近)の巷でお待ちします」と返事をしたので、皇太子は海石榴市におもむく。市ではちょうど歌垣が行われており、皇太子は影媛の袖をとらえ、誘いかけるが、そこに鮪がやって来る。そして二人の間に割って入って来たので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪と歌を応酬を行う。皇太子は鮪の歌により、鮪がすでに影媛と関係を持っていたことを知り、顔を赤くして怒る。その夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村はその相談を受け、数千の兵を率い平群を急襲し、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで出向き、鮪の最後を見届ける。驚き混乱した影姫の目には涙があふれたという。