大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

万葉の桜井・・・忍坂・倉橋

忍坂山(おさかやま)

[caption id="attachment_3525" align="alignnone" width="400"]忍坂より見た外鎌山 忍坂より見た外鎌山[/caption]

桜井市忍阪の東北方の、外鎌山(高さ293m)のこと。 北の三輪山に対して泊瀬川を挟んで南に聳える。その南麓の斜面に舒明天皇陵、鏡王女の墓がある。

[caption id="attachment_3529" align="alignnone" width="400"]舒明天皇陵 舒明天皇陵[/caption]

[caption id="attachment_3810" align="alignnone" width="400"]鏡女王陵 鏡女王陵[/caption]

忍坂はこの山の南麓一帯を言う(北麓一帯は泊瀬朝倉)。神武天皇南紀・熊野から大和の地に進攻する際、宇陀から峠を越えて土蜘蛛八十建(やそたける)を征伐した「忍坂大室屋」の伝承地として有名。現在、地元では「オッサカ」と読むことが一般的であるが古くは「オシサカ」と呼ばれていたことが、和歌山県橋本市の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡に

癸未みずのとひつじ年八月 日十大王の年、男弟をおと王が意柴沙加おしさかの宮にいます時

と記されていることにより知ることが出来る。「癸未年」を443年とする説と503年とする説があるが、いずれの説を採ったにしろ我が国内に残る地名が仮名書きで表記された最初の例となる。仮に443年説を採った場合「日十大王(日十とは何かよく分からないが)」は允恭天皇の事となる。允恭天皇の皇后は忍坂大中姫おしさかのおおなかつひめであるから、「意柴沙加の宮」の「男弟王」とは忍坂大中姫と何らかの関係を持った人物かと思われる※1

倉橋川(くらはしがわ)

桜井市多武峯山中を水源とし、音羽山・多武峯の間の谷を北流し、桜井市倉橋・谷を過ぎて上ノ庄辺りで大和川と合流する。現在はその流れの全てを寺川と呼ぶが、倉橋辺りのこの流れをかつてはこのように呼んだと思われる。

[caption id="attachment_7293" align="alignnone" width="400"]寺川 多武峰街道にて 寺川 多武峰街道にて[/caption]

倉橋は音羽山の北麓から多武峰の北麓および北方の峰あたりの地名。磐余より宇陀に抜ける途上に位置する。椋橋・倉椅とも書く。崇峻天皇の宮都倉梯柴垣宮くらはしのしばかきのみやが営まれた地。同地内にある小字天皇屋敷がその名残であるという。日本書紀崇峻天皇5年11月に

馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、「今日、東国の調を進る。」という。乃ち東漢直駒やまとのあやのあたいこまをして、天皇しいせまつらしむ。是の日に、天皇倉梯岡陵くらはしのおかのみささぎに葬りまつる。

とあり、その墓所も同じ小字内にあった崇峻天皇の位牌を祀っていたという金福寺の近くにある塚(倉橋岡陵)が治定されている。ただし、現在その墓所は同じ桜井市倉橋北端にある赤坂天王山古墳が崇峻陵であるとする見解が有力視されている。

倉橋山(くらはしやま)

桜井市倉橋東南方の音羽山(852m)とも、多武峯(607m)ともいう。あるいは倉橋南方、すなわち多武峯北方の峰とする説もある。古事記(仁徳記)には速總別王はやぶさわけのおほきみ女鳥王めとりのおほきみの悲話が残るが、その中で天皇の軍に追われて宇陀の地に逃れようとしたこの二人が、

梯立はしたての 倉橋山を さがしみと 岩かきかねて 我が手取らすも 梯立ての 倉橋山は 険しけど 妹と登れば 険しくもあらず

と詠んでいるところを見ると、倉橋山はどうやら宇陀の地への通路であったらしい。とすれば、大和の盆地部と宇陀の地との境界に位置する音羽山が、万葉の倉橋山であると考えるべきであろうか。

[caption id="attachment_7294" align="alignnone" width="400"]音羽山 手前は鳥見山 音羽山 手前は鳥見山[/caption]


 

忍坂山

こもりくの 泊瀬(はつせ) の山 青旗の 忍坂の山は 走り出の (よろ) しき山の 出で立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の荒れまく惜しも

(こもりくの)泊瀬山の(青旗の)忍坂山は、長く裾を引いた好もしい山で高く際だった美しい山だ。愛惜すべきこの山の荒れてゆくのが惜しい。

(十三・3331)

倉橋川

旋頭歌(せどうか)(二十四首のうちの二首)

梯立(はしたて)の 倉橋川の 石の橋はも  男盛りに 我が渡してし 石の橋はも

倉橋川の飛び石はどうなったのやら。若い盛りに、あの子の許に通うために私が渡したあの飛び石はどうなったのかな。

(七・1283)

梯立(はしたて)の 倉橋川の 川のしづ菅  我が刈りて 笠にも編まぬ 川のしづ菅

倉橋川、その川のしず菅よ。私が刈っただけで、笠にも編まないままに終った、その川のしず菅よ。

(七・1284)

 

倉橋山

旋頭歌(二十四首のうちの一首)

梯立(はしたて)の 倉橋山に 立てる白雲 見まく()り 我がするなへに 立てる白雲

倉橋山に湧き立っている白雲よ。ぜひ見たいと思ったその折りしも湧き立っている、あの人を偲ばせる白雲よ。

(七・1282)

   間人宿祢大浦(はしひとのすくねおおうら)初月(みかづき)の歌二首(内一首)

倉橋の 山を高みか 夜(ごも)りに 出で来る月の 光乏しき

倉橋の山が高いからであろうか、夜遅く出て来る月のその光の心細いのは。

(三・290)

   沙弥女王(さみのおほきみ)の歌一首

倉橋の 山を高みか 夜(ごも)りに 出で来る月の 片待ち難き

倉橋の山が高いせいであろうか、夜遅くにならないとなかなか出てこない月、そんな月など、じれったくて待ちきれない。

(九・1763)

右の一首、間人宿祢大浦(はしひとのすくねおおうら)が歌の中に既に見えたり。ただし、末の一句相換(あひかわ)れり。 また作歌の両主、正指に敢へず、()りて(かさ)ね載せたり。


 

※1

この「男弟王」については、継体天皇をさすのではないかとの説もある。その場合だと、この「癸未」は503年ということになる。もしこの解釈が正しいとすると、継体天皇は癸未の時点で、すでに大和の意柴沙加宮にいたことになる。日本書紀に、継体天皇は即位(506年)後も畿内勢力の抵抗に遭い長く奈良盆地へ入れず、即位の19年後の526年ようやく大和に都を定めたとするが、この記述と矛盾が生じることになる。なお「男弟王」を継体天皇とする根拠としては、継体天皇いみなが男大迹(日本書紀)、袁本杼(古事記)とあり「をほど=おおど」と読め、男弟(をおと=おおと)と似通っているところにあるが、あくまでも(おど)と(をと)は仮名違いであり、軽々に同一人物であると判断することは出来ない。ただ、忍坂大中姫の同母兄は。意富富杼王おほほどのおほきみ継体天皇の曾祖父であり、その関係性までは否定できないように思う。

※2

また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人なこうどとしてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言われますには、「皇后樣を憚かつて、ヤタの若郎女をもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあなた樣の妻になろうと思います」と言つて結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王は御返事申しませんでした。ここに天皇は直接にメトリの王のおいでになる處に行かれて、その戸口のしきいの上においでになりました。その時メトリの王ははたにいて織物を織つておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌は、

メトリの女王の織つていらつしやる機は、誰の料でしようかね。

メトリの王の御返事の歌、

大空高く飛ぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。

それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつた歌は、

雲雀は天に飛び翔ります。大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、サザキをお取り遊ばせ。

天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、

梯子はしごを立てたような、クラハシ山がけわしいので、岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。

また、

梯子を立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、わが妻と登れば嶮しいとも思いません。

それから逃げて、宇陀の曽爾そにという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。 その時に將軍山部大楯やまべのおおだてが、メトリの王の御手にいておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻は、かのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りました。そこで皇后磐之媛いわのひめのみことが、お手ずから御酒の柏の葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はその腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられましたことは、「あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにその奴は自分の君の御手に纏いておいでになつた玉の腕飾を、膚も温かいうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです」と仰せられて、死刑になされました。

 

(武田祐吉の現代語訳による 「青空文庫」底本は岩波文庫)

一部振り仮名など改変


 

なお、この忍坂辺りについては以前詳しく述べたことがあった。もしよろしければ、以下の記事も併せて読んでいただければ幸いである。

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(2)

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(3)

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(4)