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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷の記・・・野蒜海岸

大和のこと

釣石神社を訪れた後、兄と会食し石巻に宿を取った私は、翌朝叔母の家を訪ねた後に生まれ育った東松島市野蒜の地を訪ねた。宮城と山形の県境、船形連峰の船形山を水源とし、わが県でも有数の穀倉地帯である大崎平野を潤した鳴瀬川は、ここで太平洋に流れ入る。私はその河口部付近で18までの人生を過ごしていたのだ。

[caption id="attachment_7358" align="alignnone" width="300"]鳴瀬川河口 鳴瀬川河口 石巻を望む[/caption]

ご覧のように海中に、陸から切り離された不自然な形で岸壁が延びている。私がここで暮らしていた頃は(もっと正確に言えば、2011年3月11日までは)その向こうに砂浜が、奥に見える砂地にまで広がっていたのだが、あの日の昏い波濤は無慈悲にもその海岸線を構成していた砂を押し流してしまい、ご覧のような奇妙な光景が生まれるにいたったのだ。

そもそもこの岸壁は、明治初年にこの地にて行われた大規模な築港工事によって生じたものである。野蒜築港計画は日本初の近代港湾の建設を目標としたもので、、明治政府による東北開発の中心的な事業と位置づけられていた。その詳細はこちらによられたい。

結局は失敗に終わったもののとにかく大規模な工事で、私の小さい頃にはこの工事が失敗した代替えとして横浜港の建設が行われたのだという話がささやかれたりもしていた。もしもその話が事実だとすれば、私はその港の中心地たる一等地に暮らす大地主のせがれであったのかも知れない(何しろ田舎なので、一件あたりの敷地がとにかく広い)。それほどの大工事であったから、多くの工事関係者がこの地に集った。となれば、またその男達を目当てに多くの遊戯関係の女達が集まるものだ。その賑やかさは「野蒜掃くなら箒は入らぬ。着物の裾で掃けばよい」とまで歌われたということを小学校の担任の先生から聞いた記憶がある。

そんな繁栄の記憶が、今もなおこうやって残されていることに・・・その他の記憶がほとんど全て流し尽くされたというのに・・・いささか奇異な感は否めないが、全てが変わってしまった私が子どもの頃眺めたこの地の人工物で、ほとんど唯一のものがこの岸壁なのである。

そうそう・・・そういえば子どもの頃、私が絶えず眺めていたもののうちの一つがその沖合に変わることなく一つ残されていた。

[caption id="attachment_7359" align="alignnone" width="300"]沖の明神岩 沖の明神岩[/caption]

明神さん(正式には沖の明神岩)である。

私が今立っているのは、鳴瀬川西岸。かつて鳴瀬町野蒜といわれていた場所である。そしてその東岸は浜市といった。そこに石上いしがみ神社とよばれるささやかな御社があった。御祭神素盞男すさのを命、少名彦すくなひこ命、猿田彦さるたびこ命。神様の組み合わせとしては、ちょいと珍しい取り合わせである。仁和元年(885)の勧請と伝えられているが、鳴瀬川河口部に位置する神社で、その河口部にある沖の岩・中の岩・岸の岩が神体であるという。それぞれに、石上・白鬚(猿田彦)・二俣の神を祀っていたというのだが・・・今我々が見ることが出来るのは、この明神さんだけである。それは何もあの日があったからこうなったわけではなく、私が小さい頃からそうであった。この明神さんは、その存する位置により、その名称どおり上述の沖の岩と考えられるから、そこに祀られているのは石上の神ということになろうか。あとの二つは長い歳月の中、風化し消え去ったものか、あるいは幾度もこの地をおそった地震津波で失われたものか、いずれかであろう。

ただ、河口部対岸(つまり私が住んでいた野蒜の地)に白鬚神社という神社があった。その名の通り白鬚神を祀ったお社であったから、石上神社の伝えでいうところの中ノ岩とは何らかの関係があるように思われる。が・・・白髭神社の社伝には次のようにある。

往古鳴瀬川に三島あり。沖の明神、中の明神、岸の明神と称し、各島の頂上には、当社御祭神たる猿田彦の大神を沖の明神に祀り、布留霊ふとだまの神を中の明神に祀り、天宇受賣あめのうずめの神を岸の明神に祀る。

布留霊は「ふるのみたま」と読みたいところだが、社伝には「ふとだま(おそらくは太玉神)」とルビが振られている。

上の石上神社の伝えとは異なり、猿田彦(白鬚神)を沖の明神に、布留霊を中の明神に、天宇受賣を岸の明神に祀るとある。そこに祀られている神名だけを考えれば、布留霊を白髭神社社殿に従い「ふとだま」と読むとすれば、この神は天岩戸の一件の際に、天照大神を岩戸の中から引きずり出しためのプロジェクトの功労者であり、天宇受賣はそのプロジェクト上最も重要な任務(世界初のストリップ)を果たした、これまた功労者である。そして・・・猿田彦はその夫。それぞれの関係には非常に密なるものがあり、石神神社のそれの石上・白鬚・二俣の神の三神のそれぞれの関係を凌ぐものがある。

が、だからといって白鬚神社の社伝が正しいものだと即断もしかねる。なぜならば、石上神社の伝えによる沖の岩・中の岩・岸の岩に祀られた三神の関係の不自然さに、後世の人々が訝しさを感じ、白鬚神社の存在を基点として、それぞれの岩に祀られた神を再構成させたものであるかも知れないからである。さらに言えば、鳴瀬川を挟んでその両岸に鎮座するこの二つの神社は、その近辺にあった三つの大岩をそれぞれにご神体として、おのおの無関係にそこに祀られるべき神名を考え出したものだという可能性もないではない。

ようするに・・・分からない・・・というのが、今私が持っているこれらの大岩に祀られた神々についての考察の到達点である。まあ、実にいい加減なものである。

そんないい加減な話はここまでにして、視線を我が野蒜海岸に向けてみよう。

[caption id="attachment_7360" align="alignnone" width="300"]IMG_20160110_104605 野蒜海岸[/caption]

海上には雲間からさした太陽光線が映り、きらきらとしてまさに美しい限りである。この海が私を育ててくれた。そしてわが町の人々の生活を支えてくれていた。そしてそれらのすべてを奪い去った・・・・

・・・・?・・・・見慣れぬものがある。

[caption id="attachment_7361" align="alignnone" width="300"]野蒜海岸 鳥居 野蒜海岸 鳥居[/caption]

私がここで暮らしていた頃には、このような鳥居はなかったはず・・・と思い、家に帰ってから調べてみると

鳥居は高さ約3メートル。東日本大震災被災した野蒜地区で立ち枯れた杉を伐採して作った。海岸は10メートルを超える津波に襲われたが、震災後も初日の出を見に多くの人が訪れる。かつて正月に鳥居を立てるのが恒例だったが、途絶えていたのを昨年、復活させた。

朝日新聞デジタル版2015年12月27日

「昨年、復活させた。」とある。ということは、震災以前から、鳥居はこの場所に立っていたに違いない。そういえば・・・私がこの地に暮らしている頃から野蒜海岸は、初日の出を拝む地として県内でも有名な地であった。元旦には海の彼方、牡鹿半島の、その突端から昇る初日の出を拝もうと多くの参拝者が訪れ、浜辺へと続く我が家の前の道は渋滞を極めたものだった。ひょっとしたら、その頃もこのようにして鳥居が立てられていたのかも知れない。

「・・・かも知れない」・・・歩いて行けばほんの数分名この場所に暮らしていた私が、「・・・かも知れない」とはどういうことかと怪訝に思われるかも知れない。なんのことはない・・・元旦の前の晩は大晦日である。大晦日で夜更かしをしていた私が、初日の出を見ることの出来るような時間に起きていなかっただけのことである。