大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

「与える」という言葉

私だけのことかもしれないが、最近、妙に耳についてならない言葉がある。その言葉はテレビをつければ一日に何度かは必ずのように耳に入ってくる。

「与える」という言葉だ。辞書には次のように説明してある。

自分の所有物を他の人に渡して、その人の物とする。現在ではやや改まった言い方で、恩恵的な意味で目下の者に授ける場合に多く用いる。(大辞林

改めて説明するまでもないことだが、この言葉のもつニュアンスとして、上で太字で示した「恩恵的な意味で目下の者に授ける」という色彩の強いことは否定できない。そして今、自らを高みにおいて、そこから周囲の人々を見下ろすような、この言葉が日本ではあちらこちらでのさばっている。曰く・・・

被災者の方々に勇気を与えたい・・・

東北の人々に元気を与えてあげたい・・・

それは確かに、被災によって打ちひしがれ、生活苦にあえいでいる人々から見れば、そうではない地域の人間は生きてゆく上での余力は充分にあるだろう。そしてその余力の何分の一であってもそれを被災の地に融通することは必要なことであり、またそうでなければならない。だから、東北の地に足を運び、人として善意の限りを尽くしていらっしゃる多くの方々に対してはいつも頭が下がる思いをしている。被災の地の出身者の一人として万感の思いを込めてお礼を申し上げたいとも思う。

けれども、その行為のあり方を「与える」というかくも傲慢な響きを持つ言葉で表象してよいものか・・・という思いが私の胸中を去来してやまないのだ。よしや、この「与える」なる言葉にかくのごとき違和感を覚え、憤怒の思いを抱いているのが私だけであったとしよう。一人のへそ曲がりが多くの善意に対してただ噛みついているだけあるとして、この「与える」という言葉を認めたとしよう。

けれども、さらに私は上記のもの言いには違和感を感じずにはいられない。

はたして「勇気」や「元気」を意図して他者に「与える」ことができるのだろうか・・・と。

この未曾有の国難に際し、被災の地に赴き、被災の人々とふれあった多くの善意者が「かえってこちらの方が元気をもらった。」と口にしているのもよく耳にする。半ば謙遜もあるのだろうが、おおかたは事実であろうと思う。ならば被災の人々は、わざわざ他の地域から自分たちのために赴いてくれたボランティアたちに「勇気を与えよう。」とか「元気を与えよう。」というような思いで善意者たちと接したのであろうか・・・

否である。

彼らはおそらく懸命に生きようとしていただけである。必死になって暮らしを再生させようとしていただけである。そして、その懸命さ、必死さがそれに触れた者を必然的に勇気づけ、元気づけるのである。

数日前私は職場の片隅におけるクロアナバチの営巣の様子を記事にした。彼女(母蜂)の無心な行動に心打たれたからである。しかし、このクロアナバチはそれを見ている我々人間の存在など一切眼中にない。ただひたすら己のなすべきことを遂行していただけである。

意図して他者に「勇気を与え」たり「元気を与え」たりできるものではない。ただひたすらに自らのなすべきことに打ち込むその姿こそがそれを見る人の心に力を漲らせるのだ。

数年前、春の選抜高校野球の代表に選ばれたチームのキャプテンがインタビューに応えていたそのもの言いに立腹したことがある。

多くの人に感動を与えるようなプレーをしたいと思います。

彼は言った。

何に立腹したか・・・・ここまで読み進んでいただいた皆さんならば、もうお分かりいただけると思う。