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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷の記・・・瑞巌寺(上)

松島湾の海岸線に沿って東西に走る道沿いにいわゆる観光地の「松島」はある。その東西の道から、土産物屋のいくつかの分だけ奥に入ったところに瑞巌寺の総門はある。

[caption id="attachment_7511" align="alignnone" width="300"]IMGP5191 瑞巌寺総門[/caption]

伊達政宗により慶長14年(1609)に建立された一間一戸の袖塀そでべいつき薬医やくい門である。袖塀とは 門や建物の脇に設けられた低い塀のこと。薬医門とは、本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられた形式の門で、後にその扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前があるというが、別に「矢喰い門」とも言われ、矢の攻撃を食い止めるためのものであったという説もある。奥州随一の大名伊達政宗が建立したという事実は、俗説に過ぎない考えとは言え、後者の考えを魅力あるものに思わせてくれるが、そのことはここでは触れずにおこう。

さて、この総門をくぐり抜けた私は・・・はて、以前この門をくぐったのは何時のことであっただろうか・・・と覚束ない記憶をたどっていた。

大和に暮らす人々は、少し車を走らせれば世に名をし負う寺社仏閣に案外足を運ぶことがない。かくいう私も、例えば自分が最後に東大寺の大仏さんにお会いしたのはいつの事であったかを思い出すために、自らのブログの記事を探さねばならないほどである(結果は4年前の2月のことであった)。私などはこれでもしげしげ寺社仏閣に足を運んでいる方で、同僚などに尋ねても大仏さんは小学校の遠足以来会っていない・・・とか、法隆寺五重塔は外から眺めたことがある程度だとか言う人間は珍しくない。

それと同じような事実が、宮城の人々と瑞巌寺の間にはある。確かに斎太郎節にも歌われた瑞巌寺であるから、県民のほとんどはその名を知っており、しかもそれが宮城を代表する自慢の仏閣であること思っている。けれども・・・実際にこの門をくぐり、参拝料を支払った経験のある人はどれだけいるのだろうか・・・そして、その参拝料を支払った経験のある人々のうち、一定の比率の人々はたまさかに県外から客人が来て、県内の名所見物の案内をする際にその客人と一緒に訪れたのが唯一の機会であっただろう事は想像に難くない。

私にしてもそうだ・・・

覚束ない記憶の中に、私がこの門を御くぐり抜けたという記憶は2度。直近のものでももう30年ほど前である。就職して間もない頃、職場のお客さん達を引き連れての団体旅行で東北を回ったときのことだ。しかもその時は、境内にある「洗心庵」というお食事処でお客さん達に昼食をとってもらうためで、瑞巌寺の本堂にこの時は参拝していない。

もう一つの記憶はさらに遡り小学校の頃のものとなる。私の父親はささやかな石材業の会社を営んでいたが、様々な事情で当時住宅建築のラッシュがあった大和にその支店を据えた。私がしばしば大和に足を運ぶようになったのはそんな理由によるのだが、その支社にあるとき1人の若者(小学生であった私から見ればおじさんであったが)が訪れた。地元鳴瀬町野蒜(現東松島市野蒜)にて、父と同様に石材業を営んでいた方(何と「樅の木は残った」で知られる片倉小十郎景長の末裔)のご子息。夏のお休みを利用して大和見物にいらっしゃったのだが、その際にたぶん我が父あたりが気をきかせたのであろうか、大和での商売仲間であった方の妙齢のお嬢さんがその見物に幾度かついていらっしゃった。

そしてそのご子息が宮城に帰る。その年のことであったか、翌年のことであったか記憶が定かでないのだが、今度はそのお嬢さんが宮城へといらっしゃった。泊まったのは、父親同士が親しい我が家。そしてそのお嬢さんの観光のご案内を、そのご子息が幾度かつとめたのだ。まだ男女のことについて覚束なかった私は厚かましくもその幾度かに帯同した。そしてその訪問先の一つが瑞巌寺であったのだ。だからそれは45年ほど前の事になる。

いずれもかなり古い出来事なのであるが今回私がこの総門をくぐり抜けた時のこの寺の印象はかなり確かだ。

瑞巌寺参道

が・・・このとき私が目にした参道の姿は、その二つの記憶の中にある瑞巌寺の印象とは甚だしく異なるものであった。私の記憶に残る瑞巌寺の参道は、総門から中門に向けて鬱蒼たる杉木立に覆われていた。

それが今は・・・すべての杉は切り払わて・・・痛々しく柵に囲まれ、足を踏み入れることができなくなっていたのだ。

そう・・・これもあの日の昏く冷たい波濤のせいなのである。あの日東北地方の海岸線を破壊し尽くした波濤は、日本三景の地をも見逃すことはなかった。とはいえ、その独特の地形のゆえであろうか・・・それとも湾内に浮かぶ島々が波消しブロックの役割を果たしたのだろうか、この松島の地をおそったそれは、他のどの地域をおそったものよりはかなり破壊力の乏しいものであった。確かにそれは防波堤を越え、立ち並ぶ土産物屋や観光施設をおそったものの他の多くの地のような破戒の限りは尽くさなかった。したがって、海抜も低く海岸線に隣接した地に多くの建造物が建ち並ぶこの地ではあるが、その多くが浸水こそはしたものの、今もなお震災前の建物がほとんど残っている。そして瑞巌寺にあってその波濤は、参道の途中までしか到達していなかった。

ならばなぜ杉木立はかくも無残にその姿を変えてしまったのか・・・やはり、それは津波が原因なのである。

建造物や樹木を押し流すほどの絶大な圧力を持たぬとも、それは海水である。そしてその海水は境内の地面に大量に染み入ったはずである。海水は言うまでもなく塩水である。境内の地中には膨大な量の塩分が取り残されたのだ。これがこの場所の植生に影響を与えないはずはない。そして・・・ あの日の激烈な水流に耐え抜いた杉木立もその影響を免れることは出来なかった・・・塩害である・・・。

木立の全ての杉は枯死してしまったのである。私は震災の年の秋に郷里を訪れた際、津波に襲われた田圃と襲われずに見事に黄金色に実った田圃コントラストに驚いたことを思い出した。よって、どう修復するかは知らないがこの参道は修復中につき、通ることは出来ない。右手に折れて、境内東に城壁のように続く小山沿いの道で北へと向かうのが、今の参拝道になっているようだ。

そして私もその道を歩み始める。