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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷の記・・・瑞巌寺(下)

・・・と、右に折れて突き当たりの所に写真のような塚が目に入った。

[caption id="attachment_7524" align="alignnone" width="300"]IMGP5193 鰻塚[/caption]

鰻塚である。鰻塚は、大正12年8月16日に建立されたもので、「鰻塚」の文字は瑞巌寺第126世松原盤龍老師が揮毫したもの。裏面には当時、寄付金を出した北海道から東京までの関係者(蒲焼店、関係卸問屋等)の126名の名前が刻みこまれているそうだ。当時松島湾においては天然鰻が多く獲れ、多くの人々の口腹を満たしていた。これは、その犠牲となった鰻たちを弔うためのものだという。そして、その供養の祭りは今も続き、毎年、鰻塚の前で法要が行われ、その後に松島湾に鰻の放流が行われているらしい。

鰻塚を左に折れて、城壁のように続く小山沿いの道で伽藍へと向かう。

[caption id="attachment_7525" align="alignnone" width="300"]IMGP5197 瑞巌寺岩窟[/caption]

そこには・・・写真のような異様な光景が広がっている。洞窟遺跡群である。これらの洞窟は、今は臨済宗妙心寺派に属するこの寺が、かつて天台宗に属していた頃のものと伝えられてはいるが、そこにある供養塔が江戸時代以降のものしかない事から江戸期に掘られた洞窟群であると今は考えられている。

すべての洞窟内は塔婆・五輪塔・戒名等が無数に刻まれおり、この洞窟達が供養場として使用されていたことを窺わせる。これらの洞窟内の供養塔で最も古いものは、寛永13年(1636)に伊達政宗に殉死した佐藤内膳吉信のものであると確認されているが、供養された者には仙台範囲外の人物も確認されているという。かつて松島が「奥州の高野」と呼ばれ、亡き人の供養が営まれた場所であったことのなごりがここにあるのであろう。

さて参道を進み私がたどり着くのは瑞巌寺中門。伊達家の家臣が藩主に変わってこの寺を参詣する際に用いられた門で、藩主、並びに高貴の人の参拝には左手にある御成門がもちいられた。また庶民の参詣には右手庫裏に連なる登竜門が用いられたのだという。

[caption id="attachment_7526" align="alignnone" width="300"]IMGP5210 中門[/caption]

なお、政宗は中門の設置に当たり、この門を通して参道の杉の木立の間に中秋の名月を見えるように本堂の位置を決めたと聞く。

ご覧の通り、工事中につき本堂及びそれに連なる建造物は拝見することが出来ない。やむなく唯一開放されている本堂の東に隣接する庫裏へと向かう。本来ならば本堂内に鎮座する御仏の数々が、今この庫裏にいらっしゃるのである(ただしその障壁を彩る絢爛たる桃山画はさすがに移動できない。そのうちの一部の複製を見ることが出来るのみである。)。

[caption id="attachment_7527" align="alignnone" width="300"]IMGP5223 庫裏[/caption]

庫裏に入るとまず目に入るのが彩色鮮やかな聖観音像。

[caption id="attachment_7528" align="alignnone" width="300"]IMGP5219 光雲観音[/caption]

高村光雲の手によるものだ。いつも私が大和の寺々でお会いする仏様達とはかなり趣を異にしているが、これはこれでなかなか気品があり、手を合わせ拝するに充分な気品を備えている。像全体の優美な曲線だけではなく、細部まで行き届いた意匠は、光雲の思い描くところの「美」なるものを我々に示してくれている。

[caption id="attachment_7529" align="alignnone" width="300"]IMGP5212 本堂[/caption]

続いて同庫裏から本堂前に抜けるための門、登竜門から見た本堂。先にも述べたように本堂は現在大修理中にて、今日はここから撮影するのみでご勘弁願いたい。

[caption id="attachment_7530" align="alignnone" width="300"]IMGP5213 臥竜梅[/caption]

左手に見える木の枝は、臥龍梅。政宗公が文禄2年(1593)に朝鮮に出兵した折、持ち帰ったもので、慶長14年(1609)の寺落慶の際に、本堂正面に正宗が手ずから植えた梅だという。本堂に向かって、右が紅梅、左が白梅で、地面を這うような姿からその名がつけられたという。

[caption id="attachment_7531" align="alignnone" width="300"]IMGP5215 障壁画と御本尊[/caption]

続いては当時のご本尊、聖観音菩薩。本来は本堂に御鎮まり下さっているが、なにぶん現在本堂は何かとかまびすしい。平成の大修理が終わるまでは、こちら・・・庫裏の北側に設えられた仮の書院に仮住まい・・・ということだ。

[caption id="attachment_7533" align="alignnone" width="300"]IMGP5216 聖観音像[/caption]

瑞巌寺104世夢庵が江戸時代の中頃に記した松島諸勝記には、弘法大師の作とあるが、室町時代後期のものと推測されている。(ただしこれも断定はしがたいとのこと)。青銅製であることがその特徴としてあるが、室町時代、仏像は木造が主流で他にあまり類を見ないものだという。さらには青銅製の像は基本的には、頭から足先まで一つの塊として造るのが通常であるに対して、この仏様は両肩が外れるようになっている。おそらくは持ち運びの便を考えてのものかと思われるが、さだかとは言えない。

さて・・・小一時間ほどこの奥州随一の古刹内を巡り歩いた。寺の沿革などの詳細は当寺HPをご参照願いたいが、最後にこの寺を拝観し終わっての印象について、少々申し上げたいことがある。

この寺の総門が薬医門となっているとお話ししたときのことを思い出して欲しい。その時に私は

別に「矢喰い門」とも言われ、矢の攻撃を食い止めるためのものであったという説もある・・・が、俗説に過ぎない考えとは言え、奥州随一の大名伊達政宗が建立したという事実はこの考えを魅力あるものに思わせてくれるが、そのことはここでは触れずにおこう

と書いたが、ここでそのことについてもう少し立ち入ってみたい。

俗説に過ぎないとも考えられる「薬医門」=「矢喰い門」説であるが、この寺の立地を考えた時、妙にこの考えが真実味を帯びてくる。お時間のある方はココをクリックして欲しい。国土地理院の地形図である。これを拡大すれば瑞巌寺の位置は容易に探すことが出来る。

訪れたことのある人ならばご記憶にあるかと思うが、瑞巌寺は三方を崖に囲まれ、その様はさながら天然の要塞のごときである。さらには瑞巌寺が所在する松島の地もまた三方が切り立った崖の多い丘陵に囲まれており、そして残された一方は海である。そこは幾つもの小島が散在する松島湾・・・仮に海から船にて外敵が侵入してきた際にはこれらの島影にいくらでも伏兵を配し、迎撃することが可能である。しかも潮流も複雑で、岩礁も多い。かなりこの湾の地形や潮流に詳しいものでなければ、操船も覚束ないはずである。

北東は幾分開けた土地のように見えるが、高城川以東手樽にいたるまでは、かつて手樽浦(戦後干拓によって農地になった)と呼ばれた浅海であり、深々とした干潟を形成していたものと思われ、仮に潮が引き陸地が生じていたにしろ、こちらからの侵入は不可能に近い・・・どこからも、攻めようがないのだ(なおこの地形図の左上の「機能」とあるボタンを使えば、この地図の3D図を見ることが出来、これから私が述べようとしていることがさらに実感できる)。

1604年から5年の歳月をかけて正宗はこの寺を今見る形に修復するが、居城である仙台城から離れた松島の地になぜ伊達家の御廟を作ろうとしたのか・・・そこに、瑞巌寺仙台城の出城であるとする説が生じる由縁がある。以下、その瑞巌寺出城説についていささか思うところを述べる。歴史学には全く疎い私が、しかもさらに専門からは遠い戦国史について云々する資格に乏しいことは重々承知している。したがってここからあとはそんな私のたわいのない妄想と受け取っていただき、お笑いぐさにでもしていただければ幸いである。

正宗の居城仙台城は戦国期において典型的な山城であるが、彼がこの城を築き住み始めたのは慶長6年(1601)。関ヶ原の戦いの翌年である。戦国もほぼ終了し、大名達の居城の主流は平地に設けられることがほとんどになってきた。しかるにわざわざ時代遅れの山城を正宗はなぜ築いたのか?

正宗が死を前にしてまわりのものに「仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬ。自分の死後、平城へ移るように・・・」と奨めていたらしいが、この言葉を深読みすれば、正宗は自らの末期の際まで仙台城が山城としての機能を発揮する機会があるだろうと踏んでいた・・・とも言えなくはない。家康にも一目置かれ、3代将軍家光からは「伊達の親父殿」と尊敬され、その死に際して江戸や京の町においても喪に服する(御三家以外では例を見ない)ことを命じられた、・・・そんな人物がその死の間際まで、事が起こることを考えていたのだ。

正宗の言行録である正宗公名語集(昭和10年無一文館書店発行本p40)に

大御所(家康)駿河の御殿にて御病氣重き折節(元和二年二月)、悪き者の申分にて、已に其方謀反のよし其聞へ候間、我等も御病氣にもかまはず奥州へと心掛け候折節・・・

とある。これは死の床にあった徳川2代将軍秀忠が政宗を枕元に呼び述懐したもの。家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた・・・と秀忠は当の政宗に語っていたのだ。正宗が謀反の疑いをかけられたことはこの時だけではなく、秀忠の代にあってもしばしば伊達討伐を秀忠は重臣達に諮問していたほどである。

徳川幕府の成立以降にあっても正宗の心の裡に「天下取り」があったと言うことは、しばしば歴史愛好家の語るところではある。その語るところの是非はともかくとして戦国の世を生き抜いた正宗ならば、幕府にとって自分がどのような存在であるかは充分に自覚出来ていたと思う(自分のことを「伊達の親父殿」と呼んだ家光の時代にあっても、それは家光のみの意志であって、幕府総体の意志とまでは言い切れない)。

ゆえに正宗は晩年風雅の道や美食に明け暮れ、「天下取り」の意志など微塵も無きが如くに振る舞っていたと言われるが、それとて世を欺く行為と言われれば否定することは難しい。ようするに、現代の歴史愛好家の思うような正宗に対する期待は、当時の幕府の側にも当然あって(むろんこれは「期待」ではなく「危惧」)、正宗が野望を抱こうと抱くまいと、幕府はいかようにも難癖のつけることは可能であっただろう。

となれば、正宗としては常に有事のための準備は怠ることが出来なかったであろう。この間の子細を記した軍記物「東奥老子夜話(仙台叢書巻8)」※1には政宗が幕府軍が仙台藩内に侵攻してきた際の図上演習・・・作戦立案を行っていたとさえ言われている。そして・・・瑞巌寺はその作戦の中でいかに位置づけられているのか・・・

正宗の作戦は、仙台の城下の手前、名取川を決壊させ、水攻めにより幕府軍の機動力を削ぎ、仙台城の建つ青葉山や周辺の山々によって構成される谷間の狭隘地におびき寄せこれに攻撃を仕掛ける・・・というものであった。さらには幕府軍後方で一揆を扇動し、後方を撹乱するつもりだったとも考えられる。

そして、もしその戦いに敗れるようなことがあれば・・・

万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。

この一文は瑞巌寺出城説を否定する(むろん「東奥老子夜話」の記述を全面的に信頼することは出来ないと思うが)。彼はここを戦いの場として考えていたのではないのだ。自らの今際の際でさえ、伊達男の名にふさわしく妻子にも死に顔を見せなかった正宗である・・・彼は己・・・伊達政宗という人間にふさわしい死に場所を定めておいたのだ。この寺の絢爛豪華な装飾はそのためのものだったのだ・・・目映いばかりの桃山画に囲まれたその中で、心静かに自らの腹をかっさばこうと・・・この伊達男は考えていたのだ。戦は武士にとっての晴れ舞台。しかも・・・想定される戦は天下の徳川を敵に回した大舞台である。その幕引きの場は・・・それにふさわしい場所でなければならない。

このように考えてみると・・・瑞巌寺の置かれた立地、そして要塞と見まごうばかりの瑞巌寺のつくり(上に述べた薬医門の採用だけではない。この寺の用材の板は通常の寺院建築とは比べものにならない分厚いものが用いられている)は、そんな場合に敵を食い止め、少しでも時間を稼ぐためのものであったように思われてならないのである。

※1 「東奥老子夜話」は手元にもなく、近隣の図書館にも見つけることが出来なかったため、ウィキペディア「伊達政宗」の項の説明参考に書いた。引用文は当該の説明文からの孫引きであることお詫びする。なお仙台叢書はココからその一部(巻6まで)を読むことが出来るのでご紹介しておく(ただしエンコードは「日本語shift_jis」)。