読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷の記・・・多賀城

2016年1月10日、私は幼い頃から憧れ続けていた場所にようやく立つことが出来た。それは確か小学校の5年生か6年生の頃のことであった。私は父の書棚から背表紙に「日本の歴史」と書かれた3冊の箱入りの本を見つけた。時代劇などを通じて少なからぬ興味を歴史というものに抱いていた私は、そのうちの一つを迷わず手にとって幾頁かめくってみた。細かい文字で・・・しかも小学生にはいささか難しすぎるような漢字ばかりの文章であった。

それは中央公論社刊「日本の歴史 第一巻 神話から歴史へ」と題された一巻であった。歴史好きの方なら誰もがその名を知る井上光貞氏によって書かれたその一冊はすぐさま私を、この国の古代の虜とした。引き続き「第2巻 古代国家の成立」 「第3巻 奈良の都」を読んだ私は、その時・・・将来は大和に暮らし、地面を掘って人生を送るんだと心に決めた(決めたとおりに人生をおくれないのは人の世の常、まあなんとか大和に移り住むことだけはなんとかなしとげた)。

その舞台となるのは、古代のことであるゆえ、今私が居住している大和が中心であった(特に第2巻・第3巻)。けれども私はそんな中に、この国の始まりの時期の空気に触れることが出来る場所が、自分の住む宮城にもあることを知った。

多賀城である。

多賀城は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵である。奈良時代から平安時代陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。はじめ陸奥国府は今の仙台市太白区にある郡山遺跡であったと推定されているが、神亀元年(724)、按察使大野東人が今の場所に国府を移しこの城を築城したとされる。築城後は鎮守府もここに置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵なども設置されて、それらの全てが城柵で囲まれていたという。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、東国における律令支配の拠点としての役割を担っていた。

小学生の私はそんな場所に行ってみたいと強く願い始めるようになった。が、所詮は小学生の身。1人ではどうにもならぬ。けれどもそこに連れて行ってくれるはずの父は、当時結構景気がよく・・・ということは仕事が立て込んでいた、私を遺物も何も残っていないようなそんな場所に連れて行ってはくれなかった。中学校になってもさして事情は変わらない。私の通っていた中学校は、親の同行無しに校区外にでることは許しておらず、校則を遵守することをモットーとしていた真面目な私(笑)はやはり1人でそんな場所に出かけることはなかった。高校では・・・父親が少々暇にはなってきたが、今度は私がひたすら野球に明け暮れていた。

そして大学・・・私は大和の人となってしまい・・・今に至っており、小学校の頃に憧れた多賀城の地に足を運ばぬままこの日になってしまったのである。

この日は瑞巌寺を訪れたあと、蔵王の麓にある遠刈田温泉に宿を取る予定であった。午後からは結構時間が空いている・・・しかも、遠刈田への道の途上にこの古代の城はある・・・ということで、私はようやく長年の夢を果たすことにした。

松島から車を走らせることおよそ30分。郊外のほとんど何もない緩やかな丘陵上に多賀城はあった。

車を降りた私は早速、その緩やかな丘陵を昇ったりおりたりしながら、最初にその南門跡に立った。

[caption id="attachment_7536" align="alignnone" width="300"]IMG_20160110_133506 多賀城復元模型[/caption]

中央ややや下部の赤い点がいま私が立っている南門跡である。ここから北に、政庁に向かってまっすぐ伸びているのが

[caption id="attachment_7538" align="alignnone" width="300"]IMG_20160110_134259 南北大路[/caption]

さらに近づいてその南北大路の先の小高い丘の上に、中門がありその内に多賀城の中核はあった。果たしてその中は・・・それは私の拙い写真より、このパノラマを見ていただいた方が、よりこの場の雰囲気を味わえるというもの・・・

政庁跡360VRパノラマ

どうだろうか・・・今はその礎石しか残ってはいない・・・空漠とした場所ではあるがひとたび想像の翼を広げれば、この地を闊歩したであろう古代官人達の姿が浮かんでくるようである(これは現在の大和の遺跡たちの多くも同じである)。

・・・そこには坂上田村麻呂が威風堂々たるさまで歩いていたであろう・・・そしてもう歌うことを止めた大伴家持が遠くを見つめながら佇んでいた・・・かもしれない。