大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

纏向遺跡・・・9

<なぜ纏向なのか>

これまで述べ来ったことから、この纏向の地が、少なくとも3世紀のこの国の中心地であったことは疑いを入れない。とすれば、この纏向がなぜその中心地でなければならなかったのであろうか。

一つには、大和がどちらかと言えば弱小な国であったことがあげられる。逆説的ではあるがこのことが大きな要因だった考えられる。たとえば、幕末、徳川氏を打倒した新政府が自らの出身地、薩摩なり長州をあえて首都の候補から外したのはなぜだろうか。もし、どちらか一方を首都にしたならば、もう一方は黙ってはいないであろう。それではまとまる話もまとまらない。北九州なり瀬戸内沿岸、そして出雲は大陸と海でつながっているという利を生かし、それなりに強大な力を持っていた。そのいずれかが己が地を首都にと主張しあったらどうなるか。

もちろん、あの幕末においてなぜ朝敵の拠点、江戸にその首都をさだめたかについては、ほかにも多くの考えが存在しうるし、おそらくはそちらの方が正鵠を得ているだろう。けれども、上記のような理由が心的な要因の一部にはあったとは言い切れないようなものが感じられてならない。

次に、北九州では大陸に近すぎると言うことも考えなければならない。もし、このころ朝鮮半島の北部に侵入し始めていた魏が攻め込んできたら、その首都はひとたまりもなく占拠されてしまう。そこで、大陸からはかなり隔たった場所の大和が選ばれたのではないか。この事情は出雲でも変わらない。

さらには、この時期まだ東国は、その「倭」の輪の中には入っていない。これを何とか自らの範疇に組み込んで行くためには東国への拠点として大和が最も適していたとも考えられる。なぜならば、大和は東国へのルートを早くから持っていて、さらには大和川を介して瀬戸内に通じ、「倭」がその勢力を広げうる東端に位置していたのだから・・・

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