大和逍遥   

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帰郷の記・・・多賀城(捕逸)

前回は私が子供のころからその地を踏むことを夢見ていた古代の城柵、多賀城について書いた。実はその際にもう少し触れておきたかったことがあるのだが、文の構成上どうしても入れることができなかったことが二つあった。よって今回は捕逸と銘打って、その二点についてお話ししたいと思う。

一つ目はこれ。

[caption id="attachment_7545" align="alignnone" width="226"]IMG_20160110_134254 多賀城碑[/caption]

多賀城碑である。

多賀城碑は、前回の記事でも紹介した多賀城南門にほど近い場所に、明治8年に建てられた覆堂に守られ、ひっそりと立っている。銘文には以下の文字が彫られており、正史には語られぬ多賀城創設のいきさつを今に残している。

Tagajo Stele これをできる限り忠実に再現しようとすれば、次のようになる。

 多賀城

                     去京一千五百里                      去蝦夷國界一百廿里                      去常陸國界四百十二里                      去下野國界二百七十四里                      去靺鞨國界三千里

西

此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也                                          天平寶字六年十二月一日

まずは多賀城の位置について述べ、続いて設置に関するいきさつが記されている。あまり構文自体はそう複雑ではなく、詳しい解説を必要ともしないであろうが、いささかわかりにくい語もあるので、蛇足ながら少々の注を加えてみよう。

まずは多賀城という言葉。この言葉は続日本紀宝亀11年(780)に初めて見ることができるが、「多賀柵」という言葉ならば、続日本紀天平9年(737)に見ることができる。続いて中央部の一番上にある「西」の文字。このような碑額に方位を示すものは類例がなく、「西」の文字の意味ははっきりしない。ただし、この碑面はほぼ真西に向けて建てられている。

ついで「去京」は「京を去ること」と読み、平城京からの距離を示す。蝦夷国界」とは蝦夷国との境界を示す。蝦夷国境を、宮城県桃生郡の辺とする考えと、岩手県一関、あるいは衣川とみる考えがあるが、桃生郡であると考えると、ちょいと近すぎる。靺鞨ばっかつ国」とは隋・唐の頃、中国東北部に居住した農耕漁労民族が構成していた国々。一般的には渤海ぼっかい国(これも靺鞨族の国)に属しない靺鞨族を指したものかとみられている(広く渤海国を含んだという考えもある)。ちょいと国際的な碑文である。

神亀元年は多賀柵創建の年724年。按察使あぜちは、奈良時代に諸国の行政を監察した官。「鎮守将軍」蝦夷を鎮めるために陸奥国に置かれた軍政機関「鎮守府」の長官。鎮守軍は、按察使および陸奥守兼任が多かった。大野東人奈良時代の武人。養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱後、蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。その後陸奥鎮守将軍に任じられ、後に鎮守将軍も兼ねる。天平9年(737)には多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請、奥羽山脈を横断し男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。この功績もあって天平11年(739)、大養徳守もを兼ねるようになっていた東人は参議に任じられる。天平12年(740年)9月に勃発した藤原広嗣の乱の際には広嗣を討伐。天平13年(741年)藤原広嗣の乱を鎮圧した勲功により従四位上から三階昇進して従三位に叙せられる。旧都平城京の留守役に任じられる。天平14年(742年)11月2日薨去。最終官位は参議従三位「東海東山節度使東海道東山道の「節度使」。「節度使」は奈良時代、唐制にならい、地方の軍政と防備を任務とした臨時の職。天平4年(732)と天平宝字5年(761)とに2回置かれた。「藤原惠美朝臣朝獦えみのあそんあさかり藤原仲麻呂の4男。仲麻呂恵美押勝と名告るに合わせ、藤原惠美朝臣とした。最終官位は従四位下参議。「修造」とは、つくろいなおすこと。修繕。修復。天平宝字六年」は762年。多賀城修造の年を示す。「十二月一日」はこの碑の建立の日であろう。

この碑については、江戸時代から創建年代やその真偽について語られてきたが、現在は近年の発掘調査の結果などから碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と判断されている。碑の高さは196cm、最大幅が92cmで一番分厚い部分では70cmの厚みがある。江戸時代(万治・寛文の頃1658~1673)に土中から掘り出されたか、または草むらに埋もれていたのを掘り起こされたらしく、今は上記の如く明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が文字を隠すほどの苔で覆われていたことが芭蕉の言葉により知ることができる。

つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。

奥の細道

ここで「つぼの石ぶみ(壺の碑)」と言う語が出てきたが、この語については平安時代末の歌学書袖中抄に次のようにある。

いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有 日本の東のはてと云り 但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り 信家の侍従の申しは石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり 其所をつぼと云也 それをつぼといふ也

ここで、「田村の将軍(坂上田村麻呂)」が、「日本の中央」と「書付た」のは、確かに「陸奥のおく(蝦夷地)」は「東の果て」ではあるが、蝦夷には多くの島々があるので、実質的にはここが日本の中央であると田村麻呂が判断したのであろうと、袖中抄の著者藤原顕昭は述べているが、正しい理解であると言えるであろう。

正しくはこの多賀城碑が「つぼの石ぶみ」であるかどうかは、はなはだ疑わしく、そこに記述してある文も多賀城碑のそれと袖中抄にあるそれとではかなりの隔たりがあるゆえ、私なども全くの別物と考えているが、袖中抄以降この言葉が「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」との内容の歌を詠む際の歌枕となり

陸奥の おくゆかしくぞ おもほゆる つぼの石ぶみ そとの浜風

西行・山家集

石ぶみや つかろのをちに 有りと聞 えぞ世中を 思ひはなれぬ

藤原清輔・清輔朝臣集388番

陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ つぼの石ぶみ

源頼朝新古今集1786

のように後世に歌い継がれる中、江戸時代になって土中から掘り出され衆目に晒された多賀城碑は、その発見された場所やこれまで地中にあってその存在すら知られていなかったことから、「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」という意味で使われた歌枕「つぼの石ぶみ」と混同されるようになったのではないかと思われる。

なお、袖中抄に言うが如く「日本中央」と書かれた碑は1949年に青森県東北町にて発見されたが、これもまた坂上田村麻呂がこの地まで到達したとの記録・伝承はなく、袖中抄にある「つぼも石ぶみ」であるかどうかの判断が下されてはいない。

続いて触れておきたいのは、前回の記事に書いた

・・・そこには坂上田村麻呂が威風堂々たるさまで歩いていたであろう・・・そしてもう歌うことを止めた大伴家持が遠くを見つめながら佇んでいた・・・かもしれない。

という一節についてである。二度にわたって東征し、数多くの軍功を上げた坂上田村麻呂は別として、歌人大伴家持の名がどうしてここにあるのか・・・疑問をお持ちになった方がおられるかもしれない。数多くの歌を万葉集に残し、その繊細優美な歌風は構成の王朝歌の基礎を気づいた・・・あるいは中古・中世を飛び越えて近代の憂愁を歌った・・・とも言われる歌人の姿を、かくも辺境の地多賀城のしかもどちらかと言えば殺伐としていたであろう戦の庭に幻視しなければならないのか・・・・そんなふうにお思いのことかと思う。

しかしながら「歌人家持」は、大伴家持という人の一側面でしかなかったことも我々は知らなければならない。家持は、大和朝廷草創の頃から武門の家として天皇家に仕え、歴代の高官を排出した大伴宗家の嫡流であったのだ。そして、天平期以降の度々の政争をくぐり抜け、従三位中納言東宮大夫陸奥按察使持節征東将軍の高位まで駆け上った政治家であり武人であったのだ。

その最晩年にあって陸奥按察使持節征東将軍の任にあった家持は、延暦4年(785)8月28日、その任地にあって生涯を閉じた。続日本紀はその死を次のように記す。

中納言從三位大伴宿祢家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂。父大納言從二位旅人。家持天平十七年授從五位下。補宮内少輔。歴任内外。寳龜初。至從四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年拜參議。歴左右大弁。尋授從三位。坐氷上川繼反事。免移京外。有詔宥罪。復參議春宮大夫。以本官出爲陸奥按察使。居無幾拜中納言。春宮大夫如故。

人あって言う・・・家持が陸奥按察使持節征東将軍(先に鎭守將軍)に任じられたのは、齢60を越えた頃。しかもその時彼は参議從三位春宮大夫の高位にあった。くわえてその任期中に参議から中納言に昇進も果たしている。そんな人物が果たして僻東の任地にわざわざ赴いたであろうか・・・これは、当時良く行われた遥任であって、家持は都にあってその任務を他に委ねていたのではないかと・・・

しかし前例はある。他ならぬ家持の父、大伴旅人である。旅人は60を越えた齢になって任じられた太宰府の地に実際に足を運び執務している。この父の太宰府下向に際しては、家持も筑紫の地に下っていたと考えられており(下向の時期については家持が後から下ったとする)、その父の執務をつぶさに見ていたはずである。そのような経験のある家持が父と違う道を歩むとは思えない。

しかも家持はその死の年の4月次のような建議を天皇に対し言上している。

中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等言。名取以南一十四郡僻在山海。去塞懸遠。属有徴發。不會機急。由是權置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於國府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建爲眞郡。備置官員。然則民知統攝之歸。賊絶窺之望。 中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等まうさく。名取より以南みなみ一十四郡はりて山海に在りて、を去ることはるかに遠し。徴發のこと有るに属りて、機急に會はず。是に由りてりに多賀、階上しなのへの二郡を置き、百姓を募り集めて、人兵を國府に足らし、防禦まもりを東西にまうく。誠に是れあらかじ不虞ふぐに備へて、さきを万里にすすむるなり。但しおもひみるに。いたづらに開設の名有りて。未だ統領の人を任することをえず。百姓顧望かへりみて、心を係くる所無し。望みはくは。建てては眞郡と為し、官員を備へ置かむことを。然れば則はち民は統攝とうせいくゐを知り。賊はの望を絶たむ。

有名無実になっている仮の「郡」を、正式な「郡」としてその実効性を高めることを提案する一文である。これは・・・多賀城からはるか「一千五百里」離れて、他者にその任を委ねていたものの言葉ではない。さらには・・・万葉集の巻17~20において、歌日記とも呼ばれるほど詳細に日常を記した家持の几帳面さは・・・家持はその任務を忠実に果たしながら、多賀城の地にて生涯を閉じたのだ・・・と、私に思わせてならないのである。