大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

二つの校歌(3月11日によせて)

松風は窓ににおい白き渚鴎光る。 ああ、我らここに集いて瞳清く英知磨かん・・・

これは私が卒業した鳴瀬第2中学校の校歌である。この校歌がもう歌われることのなくなったものであることは、ちょうど1年前の記事にて皆さんにご説明をした。

5年前の今日、あの昏く冷たい波濤に貫かれた我が学舎に、再び子どもたちの声が響くことはなかった。震災後、しばらくの間、隣の鳴瀬第1中学校の校庭に仮校舎を設け授業を続けた我が母校は、2013年3月16日にその長い歴史を閉じた。震災に伴う人口の減少の他、様々な事情からこの2つの中学校は1つの中学校「鳴瀬未来中学校」としてスタートすることになったのだ。そして、その新しい中学校のスタートを飾るかのように素晴らしい校歌が加藤登紀子さんから贈られた。

そして今年・・・やはり市役所の空き室やプレハブの仮校舎にてその営みを続けていた私の母校である小学校もその長い歴史を閉じた。これもまたただでさえ過疎化が進んでいた我が郷里に震災が追い打ちをかけた結果である。我が母校野蒜小学校は隣にあった宮戸小学校と合併し「宮野森小学校」としてこの4月からスタートを切る。

そして・・・その校歌もまた加藤登紀子さんから贈っていただくことになったのだ。

加藤さんと我が郷里にどのようないきさつがあったかは知らない。けれども、この歌に対する加藤さんのお気持ちは加藤さんのオフィシャルブログにてその一端は窺い知ることが出来る。

そういえば、「鳴瀬未来中学校」の校歌の時も次のように書いて下さっていた。

http://ameblo.jp/tokiko-kato/entry-11454903928.html

加藤さんがどんな人であるかは私に知るよしはない。けれども、これまでの彼女が世に問うてきた作品の数々や、様々な活動、そして私事の範疇に属することだが、いささかながら加藤さんと言葉を交わす機会があった私の妻の印象から想像するところの加藤登紀子像というものを考えたとき、そのような方に私が卒業した2つの学校(その後身)の校歌を作っていただいたことを実に喜ばしく感じている自分を、私は今見つけている。それがそこで学ぶ子どもたちに何処まで影響をもたらすかは語れないにしても、少なくとも校歌というものがその学校の教育の方向性を示す・・・極言をすればライフインディキスとも言うべきものであるからだ。少なからずその思いは子どもたちに伝えられるはずだ。

被災の地にて、これから社会へと巣立って行く子どもたちが、そんな彼女の思い(少なくとも私の目に映る加藤登紀子の)の思いを受け継ぎながら育って行くとするならば、それは何とも素敵なことではないか・・・

ところで・・・野蒜小学校と言えば、この2月10日にふと目を惹く記事が毎日新聞に掲載されていた。毎日新聞に掲載されたのでご紹介しておく。

ファイト!:東日本大震災5年 17歳、語り継ぐ決意 - 毎日新聞

詳細は、ここで私がくだくだしくご説明するより当該の記事を読んでもらった方が良いかと思うので省略するが、事情の飲み込めない方のために一つの動画も併せて紹介しておきたい。

野蒜小学校の体育館は、災害時における避難所に指定されていた。そして5年前のこの日も多くの住民がこの体育館内に避難していた。その体育館をあの昏く冷たい波濤は飲み込んでしまったのだ。ギャラリーやうまく逃げのびることが出来た人々も多くいたが、必ずし全ての人々がそうできたわけではなかった。・・・子どもたちは、そこであったはずの言葉にも出来ぬような悲劇を目の当たりにしたはずなのだ。

言いしれぬ傷が、子どもたちの心に・・・そしてその場を生き延びた人々の心に深々と刻み込まれたことに違いない。

ともあれ・・・また今日がやって来た。もう5年もたったのかという思いと、まだ5年しかたっていないのかという思いが胸中を行ったり来たりして、何ともやりきれぬ気持ちになってしまう3月11日が・・・

すっかりと姿を変えてしまった私の郷里に対し、自分が何もなしえていないという事実に少なからず責めさいなまれ、やるせない思いにうちひしがれてしまうその日がやって来た・・・


この記事のアイキャッチの画像に示された「ハマナス」は、かつて我が郷里である東松島市野蒜が、桃生郡鳴瀬町野蒜と入っていた頃の町花である。毎年、梅雨の自分になると、小学校の行き帰りにいつも目にしていた花だ。