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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

若草山北西麓より・・・

三笠山」と言えば誰もが百人一首

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

阿倍仲麻呂

を想起するだろう。ここでの「三笠山」は春日大社の東に聳え、その神の宿る山として知られる御蓋山みかさやまをさすが、実は奈良にはもう一つの「三笠山」がある。春日山の北に連なる若草山である。事実、山焼きで知られるこの山の頂には「三笠山」と記された三等三角点が立っている。

なぜ、かくも近隣の地に同じ名の山が二つもあるのか、ことの子細を語ることはここで言いたいことではない。とにかく私はこの「三笠山」の一つ、若草山の北側の斜面に立っていた。住所で言えば・・・奈良市川上町623。検索をかければすぐにお分かりになると思うが、奈良墓地公園三笠霊苑の所在地である。

なぜ・・・墓地などに?

この墓地に私の知っている方の墓はない。

[caption id="attachment_7691" align="alignnone" width="300"]Hisilicon K3 三笠霊苑より西方を見渡す。[/caption]

中央の平たい頂を持つ山が生駒山である。

君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも

万葉集巻十二・3032

そして・・・ちょいと南の方に目を向けると、

[caption id="attachment_7692" align="alignnone" width="300"]Hisilicon K3 三笠霊苑より南西を見る[/caption]

ちょいと雲に隠れているが中央部やや下方に葛城・混合の連山が見える。そして・・・本当に小さくではあるが、その下に興福寺五重塔が見える。

素晴らしい・・・まことに素晴らしい眺望である。

けれどもも私がこの場所に立っているのはこの眺望を見るためではない。

[caption id="attachment_7693" align="alignnone" width="300"]Hisilicon K3 伴墓[/caption]

伴墓と呼ばれるこの墓石群は東大寺墓所

[caption id="attachment_7694" align="alignnone" width="214"]Hisilicon K3 重源の墓[/caption]

この五輪は東大寺の高僧、重源のもの。重源は東大寺大勧進職として、平家の南都焼き討ちの際に焼失した東大寺の復興を果たした・・・いわば東大寺復興の祖である。鎌倉時代前期の作で花崗岩製、高さは174cm。重要文化財に指定されている。通常の五輪塔とは違い、火輪が四角錐ではなく三角錐になっているのにお気づきだろうか?

元は東大寺俊乗堂の辺りにあったものを元禄16年(1703)にこの場所に移したのだそうだ。

けれども・・・私がこの場所になっている理由は、この墓石群を見るためでもない。

それならばなぜ私はここに立つのか・・・?

伴墓・・・という言葉にピンと来たならば、おそらくあなたのその直感は正しい。たぶん玉村の源さんあたりは「はは~ん」ときているのではないか・・・いや、源さんならば、おそらくすでにご存じである可能性は高い・・・

この墓石群を伴墓と呼ぶのは、この辺りにかつて伴寺と呼ばれる寺院が存在していたことに由来するが、この伴寺について、川口常孝氏の「大伴家持-『佐保の宅』考」(古代文学会編『シリーズ・古代の文学1 万葉の歌人たち』武蔵野書院)によって説明してみたい。

伴寺については、東大寺要録や大和志に、次のような記載が見られる。

永隆寺 字伴寺 右寺 大伴安麿大納言之建立也 飯高天皇代 養老二年 奈良坂東阿古屋谷 立永隆寺 同五年辛酉三月廿三日 奈良坂東谷 般若山之佐保河東山改遷立之

東大寺要録

廃鞆寺 在川上村上方 要録云永隆寺一名伴寺 大納言大伴安麻呂

大和志

前者によれば、伴寺は正式には永隆寺と呼ばれ、養老二年(718)、大伴安麿によって奈良坂の東、阿古屋谷に建てられ、同五年(721)3月23三日に般若山の佐保川の東の山(川上町東方すなわち若草山北西麓)に移された。が、続日本紀には大伴安麿は和銅七年(714)に世を去ったとあるから、それから4年後の養老2年にこの寺が建てられたということと矛盾が生じる。その矛盾を解消しようとすれば、大伴安麿が和銅7年より前にこの寺の建立を発願したか、和銅7年以前にこの寺を某地に建て、養老2年に阿古屋谷に移し建てたと見るより外はない。

このように考えると・・・伴寺の起源は、まあ、今一つはっきりしないところがあるが、この地に古代豪族大伴氏とかなり関係の強い寺院があったことは認められよう。さすれば、後に東大寺の僧侶の墓所となったこの地は、かつて、大伴一族の人々の御霊が祀られる大伴氏の墓所であったことも充分に考えうる。大伴氏代々の遺骨がここに収められた可能性が・・・あるのだ。

大伴旅人の遺骨が、大伴坂上郎女の遺骨がこの地に・・・私の足の下に眠っているかもしれないのだ。あるいは藤原種継暗殺事件にかかわったされ死後に「遺骨配流」の非運を余儀なくされた大伴家持の遺骨が、21年後の名誉回復に伴ってこの地に改葬されたかもしれない。

大伴氏ゆかりの寺・・・氏寺をそのまま氏の墓所ときめてかかることには問題があるとは思うが、伴墓という呼称が、そこが大伴家の墓所であったという伝えを裏づけているように思う。仮にそうでなかったとしても・・・旅人、家持、坂上郎女たちが、この地において祖先の御霊を弔うべく、この地に額づいたことはたしかであろう・・・と思う。

以上・・・川口氏の御説に従い、伴墓が古代豪族大伴氏の墓所である可能性が高いことを述べた・・・あくまで可能性であるが・・・

ならば・・・曲がりなりにも学生のころ万葉集を学んだ私がここに立ち、そしてこの地にて御仏に、祖先のみ霊に額づいていた万葉歌人たちの姿に思いを馳せていたとしても何の不思議もないではないか・・・