大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷・・・3

道はいつの間にか三陸自動車道となり、今、私はその無料区間を走っている。鳴瀬奥松島のICを過ぎる。ここがわが故郷、東松島市野蒜に最も近いICだ。が、今日はその一つ先にある矢本ICで降りなければならない。父と兄夫婦が住んでいるのはそちらの方だからだ。先に述べたように今日9月4日は父の誕生日。その祝いの食事会が兄夫婦の避難先のアパートの近くの小料理屋で予定されている。

生まれ育った場所が今どうなっているか・・・それは早く知りたい。けれども、父や兄夫婦がどんな様子なのか・・・そっちの方が、もっと知りたい。早く顔を見たい。

ICから約束の場所へと向かう。兄から聞いた店の名は私の記憶にはないものであったが、大体の場所は分かっているつもりだったが、なかなか見つからない。無理もない・・・この町をうろついていたのは今から30年は前のことだ。町並みは津波のそれではなくとも変化しているし、私の記憶だって定かではない。それにしても、このあたりは建物がそれほど損傷しているものが少ない。今、車を走らせている辺りは確か水につかったあたりのはずなのだが・・・水流の強さにも地域によってムラがあったのだろうか・・・そんなことを思いながら、車を走らせているとやっと兄が指示をした店の名を書いた看板が見えた。

車を止めて早速店の中に入る。店の人の指示に従って、歩いて行くと締め切ってあるふすまの向こうから懐かしい声が聞こえてくる。どうやら元気なようだ。ふすまを開ける。一番奥に父、そしてその隣に叔母。こちら側に兄夫婦が座っている。私は兄の指示に従って父の向かいに座る。みんな明るい顔で私を迎えてくれる。そこには被災の暗さは微塵も読み取れない。無論これまでの苦労は並大抵のものではなかったはずだ。けれどもその陰りはどこにもない。私を気遣ってのこともあろうが、私はそこに兄たちの強さを見た。

食卓に目を移す。目についたのは中央の舟盛だ。

本マグロ・イカ・タコ・サーモン・ウニ・サザエ・クジラ・ブドウエビ・・・・

食欲をそそられたのはもちろんのことだが、それよりも何も私には、この地が、もうすでにかような豊かな食膳をもうけることができるほど豊富に物資が出回っていること・・・私には何よりそれがうれしかった。ただ・・・車を運転しなければならないため、ちょいと一杯というわけにはいかなかったのは残念だったが・・・。

久闊を叙し、互いの無事を祝う。どのような会話がなされたか・・・それは、大方ご想像の通りだ。ただ一つ印象に残ったのは、行政による復興に向けた説明会の様子。叔母たちの言葉によれば、仙台のような都市部では行政に向けて、かなり厳しい言葉もはかれていた様子であるが、この東松島辺りではそのような言葉は聞かれなかったとのこと。

「この辺りの人はみんなおとなしいんだ・・・」

とは叔母の言葉。私はその様子が目に見えるような思いで聞いていた。なぜなら・・・私も、そんなつつましい人々と一緒に生きていた人間だからだ。そのことの良し悪しは私にはわからない。けれども、私の生まれ育った地の人々はこんな時声高に他者を責めたりはしない人々であるということは私には身に染みてわかっていた。それがおそらくは東北の人々の大方の心性なのだ。

仮設住宅にいたら、嫁を迎えられない。」(正確には「仮設さ、いだら嫁ごばもらわれねえべ」)。

というのがせいぜいの抗議であったらしい。

食事が終わり、墓参りに行くこととなった。墓は、今や無人の地になった我が郷里、野蒜にある。店を出て、国道45号を西に向かう。矢本から野蒜の手前には宮城を東西に流れる鳴瀬川がある。橋を渡り、川沿いに海に向かえばほどなく目的地にたどり着くはずだ。

・・・が、家並みは全く見えてこない。

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写真中央の道の両脇には家が立ち並び、500~600人の人々がここでは暮らしていた。道の奥にまばらな松林が見えるが、その先が海だ。かつてこの松林は立ち並ぶ家々にさえぎられて、この場所から見えることがなかった。

そして墓地。

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すべてが薙ぎ払われ、ご覧のありさまだ。幾分、整備されたものも見受けられるが、それはこの盆に向けて、残された家族がはからったもの・・・中には…というよりほとんどが、石塔が流され、その下に眠っていたはずのそれぞれの家の先祖の遺骨が・・・やはり流され、骨堂の中は見事に空っぽになってしまっている。

我が家のそれは・・・骨堂の蓋がコンクリートで固められていたため流出することなく済んだが、その上にあったはずの石塔・五輪塔法名碑はいずこへか流されてしまい見つからないという。

あの日、この場所を襲った水流の激しさが私にはうかがい知るよしもない。

散乱する多くの石塔そ乱れからわずかばかり想像できるのみであった。

さて、墓参りは済んだ。本来ならばこの後、この野蒜の地の様子をつぶさに見て回るはずであった。しかし、今、父が一緒にいる。齢80を越えた父に、その人生のほとんどを過ごしたこの野蒜の地の荒廃をすべて見せるのは、私たち兄弟にはどうにも憚られた。私にはまだ明日の午前中という時間がある。郷里の被災の様子を見て回るのは明日自分一人ですることにして、今日は兄の家へ向かうことにした。

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