大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷・・・6

朝食後、チェックアウトを済ませた私はすぐさま我が郷里、東松島は野蒜の地へと車を走らせた。仙台の市内から東部道路、三陸自動車道と高速を乗り継ぎ奥松島のICで降りる。鳴瀬川の流れに従ってまっすぐ海岸線へと向かう。3km程の道のりだろうか。このあたりは鳴瀬川とその支流吉田川が、堤防一つを隔て、並行して流れている。この二つの河川にも3月11日の冷たい波濤は遡上し、川面を覆うほどの瓦礫が激しく打ち寄せたと聞く。今はその気配もなく、私がこの地に暮らしていた頃と微塵もかわりのなく静かに流れている。

海岸線から800m程のところで、この二つの川を隔てていた堤防が途切れ、流れは一つとなる。その堤防の下流部の100mほどが地震による沈下の故であろうか、水没し、湿地のようになっている。

あと少しで我が家のあった場所にたどり着く。

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我が家のあった場所だ。ご覧の通り今はただの荒れ野と帰している。かつてあった住居の基礎が草の隙間から見えているが、それだけでは我が家の位置は特定しかねた。

夏野わけ行く、いにしへの継橋も川瀬におちたれば、げに駒の足音もせぬに、田畑は荒たきまゝにすさみて舊の道もわからず、ありつる人居もなし。(雨月物語浅茅が宿)

とはまさにこの様を言うのであろうか・・・

道は瓦礫がすっかりと撤去され、昔あったそのままに海に向かって走っているが、その両脇の光景はまるで違う…こんな狭い道だったのか・・・というのが素直な印象だった。子供の頃、車2台がゆうに対向できるほどの広々とした道に思えていたが、今見ると車の対向はやっとぐらいの広さしかない。小学校に入る前は、近所の農家が飼っていた農耕馬がゆったりとした早さで、時々は糞を落としながら歩いていた道だ。舗装化されたのは小学校の低学年の頃だったかと思う。

そして、我が家からはこの道を挟んで、小さな広場があり、その広場の向こう側には大きな洞穴があった。戦時中には防空壕としても用いられていたらしい。そして、何の手がかりもなく我が家の位置を特定しようとしていた私はそのコンクリートで固められた洞穴の名残を見つけることができた。してみると、我が家のあった場所は・・・

上の写真はそうやって特定した場所の映像である。 私はこの場所で生まれ育った。すべての思い出のかけらはあの日、海の藻屑と消えた。

けれども、今は何も見えないこの場所に、えも言われぬ懐かしさを感じてしまったことも否定できない事実だ。

道をほんの2,3分北上する。豊かに流れる鳴瀬川の岸に立っているのはこのあたりの(新町と呼ばれていた)公民館である。海抜8mに盛り上げられた堤防のその上に建てられたこの公民館は、その立地自体が津波に備えてのものだった。

今から50年ほど前、この地をチリ地震津波が襲った。私が生まれたその年だ。地球の裏側からやってきたその恐怖を、今よりも貧弱だったわが町の堤防はなんとかしのぎ切った。けれどもその時の恐怖はこの地の人々に深く刻まれた。私がこの地に住んでいた頃、その恐怖は伝説のように語られていた。

そして築かれたのが、この海抜8mに立地する公民館だ。それが今はかくも無残な姿をさらしている。3月11日、この町に津波の襲来が伝えられたとき、この地の人々はみんなこの場所に集まった。建物の中に入ることができた人も入れずに外にいた人も不安におののきながらも、その海抜に安心していたと聞く。

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・・・が、冷たい波濤はその安心を打ち砕き、避難所であったはずのこの公民館をかくも惨たらしい姿に変えた。多くの人々が波に飲み込まれ、その場から姿を消した。その人々がその先どうなったか・・・私は想像するに耐えない。

それでも・・・この避難所は一定数の人々を守りぬいた。避難所としての役割をある程度は果しえたのだ。私の叔父と叔母もその中にいた。 波はなかなか引いてはくれない。柱にしがみつき、我が叔父と叔母は東北の冬の海の冷たい水に数時間耐え抜いた。

今、穏やかな流れの岸に立ち、私はその恐怖と苦痛、そして絶望に思いをはせた。遠く聞こえる潮騒が台風12号の接近ゆえ、激しく耳を打つ。けれどもそんな現実の潮騒を打ち消すほどには、私の胸裏にその日の波濤の引き起こした轟音と叫喚とが響いて止まなかった。

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