大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷・・・8

白髭神社を後にした私は今はその機能を果たすべくもない、野蒜駅にと向かった。高校に入って電車による通学を始めた私は、毎朝この駅から高校のある石巻へと向かった。そして大和へとその居を移すとき、降りしきる春の雪の中、父が私を送ってくれたのもこの駅である。ホームには私のくるぶしを覆い隠すほどの、真っ白な雪が降り積もっていた・・・・1979年、4月1日のことである。

その頃の駅はまだ古くからのもので、木造のその駅舎にはベージュのペンキが塗られていた。屋根が何色であったかは記憶にない。かつて東北志摩と呼ばれたこの地は宮城県でも随一の海浜リゾートとして知られ、昭和の初期に、仙台からここまでの鉄路が引かれた。宮城電鉄・・・現在津波によって分断された仙石線前進である。当時、東北の地では他所にその例を見ない電化路線であったと聞く。

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今、眼前にあるのは私がこの地を離れてからの新造のもので、被災当時の映像から見れば、大分整備は加えられているようだ。が、駅は電車が走り、多くの人々が乗降してこそ、駅・・・仙石線が未だ仙台・高城間、矢本・石巻間しか走っていない今、この駅は取り残されたままになっている。加えて、もはや無人の地となった野蒜を避けて、もう少し内陸の地域に新たに鉄路を引こうとの計画が一部にある今、再びこの駅にかつての賑わいが戻ってくるのか・・・懐疑的な思いしか抱けないまま、それでもこの建物は少しでも早く駅として働きたがっているように見えた。

貞山堀を越えて、浜辺へと向かう。

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橋を渡ればすぐに広大な、そして美しい松林が見えてくるはずだった。「余景の松原」とも呼ばれるその松林は、私たちの郷里の自慢の景物であった。そして、小学校へ、そして中学校へと通うその道はこの松林の中にあり、私たちの格好の遊び場であった。地面が砂地が主であることをいいことに落とし穴を掘ったり、松の木にロープをぶら下げてはターザンのまねごとなどをしていた。小学校の頃普通に歩けば40分で歩き終えるその道も、下校の際には2時間近くかかって母親にひどく怒られたこともしばしばだ。子供心を引きつける何かがこの松林にはあった。

それが今は・・・

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何もない。奥の方に見える白々とした建物は私が卒業した中学校・・・鳴瀬第二中学校だ。3月11日、その波は轟音をあげて、それまで巻き込んだ建物の瓦礫もろともに、この校舎を貫いた。もはや学校としての機能を果たし得ないほどの惨憺たる状況であるという。私はそこに行ってその悲惨を確認するべきだったが、これまで余りの喪失を見てきた私の目はそれを拒んだ。

そしてそのまま浜辺へと出たのである。

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波は、その頃すでに日本海に抜けていたはずの台風12号の名残で波立ち、激しく音を立てていた。まるで、見るべき悲惨を避けてこの場所に逃げ込んだ私の臆病を責めるかのように・・・そして、長くこの地を訪れて、その喪失を確認することを避け続けてきた私をなじるように・・・

・・・けれども・・・

ふと足元を見る。

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それでもなお、故郷はわたしを受け入れてくれている・・・・実感した。

私がこの町で暮らしていた頃、この町の夏の終わりにはこの花がいつも咲いていた。この浅い黄色の花びらはこの町の人々に夏の終わりを教え続けていた。そして今、誰もいなくなったこの浜辺で、今も変わらずにこの浅い黄色は夏の終わりを告げ続けている。

年年歳歳花相似たり  歳歳年年人同じからず

唐の詩人、劉希夷の詩の一節を思い出した私は、高校時代の3年間を過ごした石巻に向かうべく、車のキーを回した。

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