大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷・・・9

東松島市野蒜から私が高校時代を過ごした石巻まで車で3,40分。再び鳴瀬川をさかのぼり国道45号線に入る。途中、叔母の家族の経営する石材店を訪れる。途中、道の左にコンビニが見える。あの日の波はこのコンビニあたりまでを襲った。地震が発生し、津波の危険を知った兄はここより1㎞ほど海岸に近い自宅にいる父を車に乗せ避難していたとき津波に飲み込まれ、このコンビニまで流され、運よくその駐車場に打ち上げられる形になり、引き波に連れ去られることなく命を拾ったという。

叔母の事務所に着く。中に入るとやはりここで働く叔父の姿もあった。この叔父は9人兄弟の次男である父の一番下の弟で、被害の逢った地域に居を構えており、その自宅の一階はひどく破壊されたらしいが、その部分は補修することでなんとか住むことが可能だったらしく、昔と変わらぬ場所に今も住んでいる。叔母の出してくれたコーヒーを飲みながら、ひとしきりあの日のことを話したあと、叔父が近くの避難所に住む、私の母方の叔父夫婦の住む仮設住宅まで行くというので同行することにした。先日述べた鳴瀬川の河口近くにあった避難所・・・公民館で冷たい水につかりながら数時間を耐え抜いた、あの叔父夫婦だ。

叔父の車の後について私は車を内陸へ内陸へと走らせた。東松島市大塩。それが叔父夫婦の住む仮設住宅のある場所だ。小高い丘がいくつか続いたそのさきに、同じ形をした建物が無数に並んでいる。叔父夫婦の住む住宅もこの中にある。

車を止めた私はなんとか叔父の住む住宅を探し出し、その玄関前に立ち、叔父の名を呼んだ。力ない返事が聞こえ、叔父が出てきた。珍しいものを見るような目で、けれども叔父は優しく私を迎えてくれた。叔母は残念ながら出かけているという。

中に入った私はまず仏壇に向かう。真新しく新調されたその仏壇と、いくつかの位牌がなぜか胸にしみた。あの日の冷たい波濤はこんなものまでも押し流してしまったんだなと、改めて思い知らされた。ろうそくに火をつけ、数本の選考を立て、鈴を鳴らし手を合わせる。いつもこの叔父の家に来るたびに当たり前のように繰り返していた所作がこんな形で行わなければならないなどとあの日までは考えもつかなかったことだ。

叔父は冷蔵庫からペットボトルの一つを出し、私に勧めてくれた。冷たい水につかりながら思った事、跡形もなくなったその家が実は数年前増改築を済ませたばかりであること、大きな冷蔵庫を昨年の秋に買い換えたばかりであること・・・そして、奇跡的にも流されたはずのその家や土地の権利書や、その日身に着けることなく家に置いたままであった財布が見つけられたこと・・・叔父の話はさらに続く。

その日以降、体調崩し入院の必要があったにかかわらず、機能している病院が少なく危険な状態にあったこと・・・退院の後、妻(すなわち叔母)の実家に厄介になっていたものの、何も出来ぬまま世話にだけなっていることの息苦しさに仮設住宅への入居を決意したこと・・・・

マスメディアからのみではうかがい知れない避難生活を送る方々の何とも言えぬ苦労が、そこにはあった。

1時間ほどして私は叔父に別れを告げ、目的の石巻に向けて車を走らせ始めた。最初に向かったのはその市街地の中央に聳える(聳えるというほどの高さではないが)日和山だ。石巻の市街地には60mに満たないほどのこの山に尾根続きで、鰐(ワニ)山、羽黒山がならび、多くの住居が存している。それらの麓の一部の被害のみで、ほとんどが無傷で今もなお残っている。

日和山の頂にあるのが日和山神社(鹿島御児神社)。かつて、芭蕉もその弟子曾良と訪れた名称だ。この辺りは鎌倉時代、この辺り一帯を治領していた葛西氏の居城、石巻城のあった場所だ。

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徳川幕府による体制がスタートした際、仙台藩を支配する伊達正宗は、幕府よりその居城を設置する場所を問われた。正宗は良好に恵まれた地にあるこの日和山に居を構えることを望んだが、他藩の話を聞くと、第一希望がそのまま認められることはなく、ほとんどが第3希望の場所に指定されていると聞いた。そこで一計を案じた正宗が仙台を第一希望、この日和山を第三希望で出したところ、第一希望が通ってしまった・・・というのが高校の頃の日本史の先生の話である。

今この場所には日和山神社を中心とした公園が設けられており、海側の眺望がすばらしい。私が今回石巻での最初の目的地にしたのも、ここからならば被災の状況が一目で鳥瞰できるだろうと思ったからだ。

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ほんのわずかのコンクリート製の建物を除いて、そこに一切の住居の姿はない。石巻ではその被害が最も被害の大きかった門脇(カドノワキ)地区だ。かつて海岸線から、この山の麓までは工場と住宅が隙間なく存していた。まるで変わり果てた姿だ。

そして、この山の麓近く、太平洋にそそぐ北上川の方向に目を移す。

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写真中央のやや左、純白の卵型をした建物は石ノ森萬画館。あの日、その一階までは冷たい水にさらされたが、その水位はそこまでで、2回以上に避難していた人々をこの建物は守り抜いた。被害は少なからずあったが、全面的にとは言えないまでもすでに営業は再開されており、そこに展示されている石ノ森章太郎のてによるヒーローたちは、今、被災の地にあって子どもたちのみならず多くの人々を励まし続けているであろうことを今は信じたい。

そしてそのヒーローたちが展示されているこの萬画館のやや右手に見える白い建物が石巻ハリストス正教会教会堂だ。1880年、同市内の千石町に建設されたもので、今ある木造教会堂建築としては日本最古級のものだ。1978年、宮城県沖地震の際に被災したものの、「文化財として保存を」という市民の声により、現在地に移築・復元されていた。そして、今回もまた津波の猛威に激しくさらされた。あの日、この北上川を遡上する冷たい波濤の映像を見たときこの北上川河口部の中瀬にあるこの明治の名建築は跡形もなくその姿を失ったと私は思っていたのだが、ご覧のとおりこの神の館は今回の震災においても耐え抜き、なんとかその姿をとどめていた。

私が高校時代の3年間を過ごした街の変わり果てた姿をひとしきり眺めた後、空腹に気づいた私はその周辺で食事をとろうと思い、あたりをうろついた。立派な門構えが目に入る。「蛇の目寿司」と書いてある。

こんな場所に寿司屋などなかったはずだが・・・?

東北・・・いや、全国でも有数の漁港を持つこの町は、寿司の町でもある。かつて市内には数えきれない寿司屋が存し、三陸の美味を人々に供していた。しかし、あの日多くの寿司屋が被災し、今、営業を再開している店はまだほんのわずかだという。この「蛇の目寿司」もそのうちの一つだ。かつては山の下の市街地に店を構えていたのだが、やはり被災し、その場所での営業が今は困難だというので、今はこの山の上の住居の庭先に仮店舗としてその営業の再開が始まったのだという。

ためらわず私は暖簾をくぐり、握ってもらう。営業が再開されたとはいえ、仮の店舗による営業・・・施設も材料も充分ではない。五つしかメニューは用意されていなかった。

食事を終えた私は、山を下り、先ほど見下ろした門脇地区に車をむかわせた。

・・・何もない・・・

あれほどぎゅうぎゅうに立て込んでいた家々が一切ない。道の両脇はきれいに瓦礫が撤去されただの荒れ野原になっている。ところどころにかつては存在しなかった小高い丘が見える。撤去された瓦礫の山だ。恐ろしいほどの量の瓦礫がそこには積み上げられていた。かつてそれらの瓦礫が構築していたであろう家々があれ野原になってしまったこの地域には立ち並んでいて、夜になれば暖かい灯火が窓に揺れていた。

けれども、その揺らめきは今私の記憶の中にしかない・・・

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