大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷・・・捕逸1

9月の1か月間、このブログはかの3月11日にすべてを洗い流された我が郷里への帰京を、時系列に従って逐一を報告した記事がそのすべてであった。なるべくならば、私が見、聞きしたものをもれ落ちなくお伝えしようと努力はした。そしてその意図はほぼ尽くしえた…様な気になって、一応のピリオドは打った。けれども、今になってその記事を読み返してみた時、未だすべてを尽くしてはいない・・・そんな気がしてならなくなる。

いったい、何が足りないのか・・・何を付け加えるべきなのか漠としてとらえきれない思いを数日間抱えてきた、が・・・今、そのうちの一つがはっきりと形となって我が胸中によみがえったので、次に記してみたい。

それは先日通勤の途中信号待ちでふと窓の外に目をやった時のことだ。

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豊かな実りは、やわらかな黄金色に染まり収穫の時は目前に迫っている。そんな大和の光景を見つつふと思い出した風景があった。

それは・・・私が郷里に帰った9月の初旬・・・北国ゆえ、大和よりはかなり収穫の時期の早い宮城の田畑は早くも薄黄色に色づいていた。けれども・・・

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この場所も本来ならば、その時期、豊かな黄金色に色づいているべき場所だ。しかしながら、その時私が見たのは・・・黄金色どころか、その色に染まるべき稲穂の姿さえ一本も見えない。

そう・・・ここはあの日塩分を多量に含んだ波濤が襲いかかった場所なのだ。その塩分ゆえ、この田は少なくとも今年の耕作は放棄された。あるいは、これから数年の間も・・・。ひょっとしたらこの田の主はあの日海に帰ってしまった可能性だってある。

秋になれば当たり前のように稲穂は頭を垂れ、黄金色に染まるものだと思っていた。けれども、よく考えてみれば当たり前のことだが、そこに「稲作」という我が日本人が続けてきた営みが行われなければ、黄金色の豊かな実りなどありえない。

仙台平野に車をが知らせていた時、こんなふうに耕作を放棄された農地をあちらこちらに見た。ある場合にはその中央部に自動車や小型の漁船が・・・。そして、あるラインを越えると、急に黄金色が広がり始める。あの冷たい波は、こんなところまでやってきていたのだと思う。

おっと、忘れていた。上の写真を撮影したのは、私が育った東松島市野蒜下沼・・・地元の人々は「新町」と呼ぶのが普通だった・・・から1㎞ほど鳴瀬川をさかのぼった場所。かつて・・・そして今も「中下」呼ばれている地域の南端だ。

この辺り、基本的には海に沿って走るJR仙石線が海とは全く反対の方向にその向きを変えている数少ない場所なのだが、ここはいまだあの日のままだ。

Photo0089

本当のことを言えば、当日この車両はもっと海に近い切り通しの部分で被災したらしく、それが今こんな場所にあるのは、その後、何らかの手段でここまで引き出されてきたと聞いた。あの日・・・いや、その翌日から数日間、津波に流され九の字型になった車両は皆さんもお目にかかったことであろうが、場所的に考えて両者の中間点はこの先にある野蒜駅。単線のこの路線は野蒜駅で行き違いをするのが普通だった。さすれば・・当の野蒜駅を起点として仙台に向かうか、石巻に向かうか・・・で、それぞれの列車はその運命を異とした。おそらく・・・ではあるがこの列車は石巻に向かっていた。

その日、この車体は波をかぶり、架線を失い走る続ける力を失った。けれども、雪の舞い散るあの日の夜、この車内で被災した幾人もの人を、なんとか守り抜いたのだ・・・・

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