大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

こどもの頃のこと・・・釣りのことなど

こどもの頃の話をしよう・・・

これまで縷々述べ来たった通り、私が生まれ育ったのは宮城県東松島市の野蒜というところ。当時は桃生郡鳴瀬町野蒜といった。海辺の寒村で、宮城県のやや北部を東西に流れる鳴瀬川の河口部だ。隣の町は松島、日本三景で知られる町だ。その奥にあるところということで奥松島と呼ばれている。

海辺の町・・・しかも川までがあるという立地で、多くのこどもたちが釣りを数ある遊びの一つとしていた。そして私もその例外ではなかった。とはいっても、私が釣りを遊び・・・趣味?・・・とした年齢はそれほど早くなく、小学校の6年生の梅雨時だったと記憶している。それまでは兄や近所の友人が、いくらそれに夢中になってはいても、私が海に、あるいは川に釣り糸を垂れることはなかった。

父はその数年前から小さな石材店を経営していたのだが、いくつかの好条件が幸いしてかその規模が次第に大きくなって、従業員も30人を越えるようになっていた。そうなってくるとそれまではかなりどんぶり勘定でやっていた会社の経理も、いい加減なままではやってはいけないので、専属の事務員を雇う必要が生じてきた。となれば事務所も工場の一角の間に合わせ程度のもので・・・というわけにはいかなくなってくる。そこで父が目をつけたのは、野蒜駅前に住む父の仕事仲間の家の庭先だった。なぜそんな場所を選んだのか今となっては確かめようなないが、ともあれ、そこに10坪ほどの事務所を構え、自らの会社の拡大に対応していた。

事務所は私の通学路にあったので、しばしばそこに夜遅くにしか帰ってこない父の顔を見に立ち寄って、お菓子やらジュースをご馳走してもらったりしていた。目的は後者にあったことはいうまでもない。

そんなことが度重なって、私は次第にその父の友人の末のお子さんと親しくなっていった。当時高校生だった彼(以降便宜上Kちゃんと呼ぶ)はまだ小学生だった私にとても優しくいろんなことを教えてくれた。私は私で、兄のようにKちゃんのことを思うようになった。なにせ私の本当の兄は3人もいたが彼のように優しく接してくれるものは誰もいなかったゆえ、そのことがこの新しい兄への信頼をいっそう深くした。

そんな新しい兄が大好きだったのが釣りだ。

ある日Kちゃんに「ちょっと付き合え・・・」と、その事務所の道を挟んで向かいにあった貞山堀へと連れて行かれた。貞山堀は鳴瀬川松島湾を結ぶ運河で、伊達政宗貞山公がその掘削をはじめたゆえ、この名がある。

道から下ること2mほど、木でできた粗末な船着き場があった。釣り竿2本と運河の水を汲んだバケツがすでに用意されていた。

Kちゃんはおもむろに私にその一本を渡し、釣りへといざなった。予想もしていなかったこととて、戸惑う私に餌のゴカイの入った箱を渡し、釣り針につけてみろという。ミミズを掘り出しては空き缶に詰め込み、そこで爆竹を鳴らすという残酷な遊びを幾度も経験していた私ゆえ、ゴカイにさわることには何の抵抗もなかったが、それを釣り針につけるとなると全くその要領がつかめない。

そんな私にていねいにKちゃんは餌の付け方を教えてくれた。仕掛けは釣り糸の先に5匁の鉛のおもりと釣り針がついただけのごくシンプルなもの。これを自分の思うポイントの放り込んで・・・軽くしゃくるようにしながら少しずつ移動させるんだと・・・彼は優しく実演して見せてくれた。こうすると、魚には餌が生きているように見えるんだと彼は言った。

狙っているのは「カツカ」・・・おそらく「カジカ」がなまったものだろうが、私の郷里ではハゼのことをこう呼んでいた。

Kちゃんの真似をして釣り竿をしゃくること数分・・・竿先からブルブルとこれまで経験をしたことがなかったような振動が伝わってくる。「あわせて・・・」とKちゃんの声が飛ぶ。私はそれに応えるように釣り竿を強く振り上げた。

水面から黒い魚体が一気に飛び出してきた。その数秒前まで貞山堀の川底に這いつくばっていた生き物は、今、私の左の手に中で激しく身をよじらせている。

はまってしまった・・・

釣れたのは体長わずか10cmばかりのハゼではあったが、それでも私はこの手にはあの瞬間伝わった得も言われぬ震動が、消すことのできない記憶として残った。言葉では言い表すことのできない快感がいつまでも余韻となって私の中に鳴り響いていた・・・